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艦級概観
艦種通報艦
艦名列島名
前級龍田
次級千早
艦歴
計画:1893年度計画
起工:1894年5月26日
進水:1897年10月27日[1]
就役:1899年3月31日
建造所:呉海軍造船廠
その後:1904年5月14日触雷沈没
除籍:1905年6月15日
性能諸元
排水量:常備:1,772t
全長:垂線間長:96.0m[1]
全幅:10.5m[1]
吃水:4.0m[1]
機関:レシプロ蒸気機関2基2軸
6,130馬力[1]
燃料:石炭400t
最大速:20.0kt[1]
兵員:200名
兵装:12cm速射砲
宮古(みやこ)[3]は、日本海軍の通報艦。艦名は沖縄県の「宮古列島」にちなんで名づけられた[注釈 1]。呉海軍工廠で建造された最初の軍艦である[4]。日露戦争において戦没。 1891年(明治24年)の軍艦建造予算は否決され続けてきたが、これに対し明治天皇が自らの宮中費を節約する方針を述べた建艦詔勅を出しようやく予算案が議会を通過したことにより、富士型戦艦、防護巡洋艦「明石」、宮古の建造が開始された[5]。1894年(明治27年)5月26日[4]に呉海軍造船廠で「甲号報知艦」として起工。1895年(明治28年)8月16日、日本海軍は建造中の甲号甲鉄戦艦を「富士」、乙号甲鉄戦艦を「八島」、甲号報知艦を「宮古」と命名する[3]。1897年(明治30年)10月21日、軍艦宮古は佐世保鎮守府所管と定められる[6]。10月27日、呉で進水[7][1]。進水式には有栖川宮威仁親王(防護巡洋艦「厳島」で到着)、梨本宮守正王陸軍歩兵少尉、華頂宮博恭王海軍少尉、侯爵西郷従道海軍大臣が臨席した[8]。1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定[9]。宮古は通報艦に類別された[10]。1899年(明治32年)3月31日に竣工[4]。 1903年(明治36年)4月10日、神戸沖で挙行された大演習観艦式に供奉艦として参列[11]。12月28日、常備艦隊が解隊され、戦艦を中心とする第一艦隊と巡洋艦が主体の第二艦隊が設置される。第一・第二艦隊で連合艦隊(司令長官:東郷平八郎海軍中将)を構成した。富士は第一艦隊隷下の第一戦隊(東郷中将直率、戦艦《三笠・朝日・富士・八島・敷島・初瀬》・宮古)に配属される[12]。1904年(明治37年)1月11日、第三艦隊(司令長官:片岡七郎海軍中将)の第五戦隊(鎮遠、厳島、橋立、松島、宮古)隷下となる[13]。 日露戦争が勃発した明治37年2月8日、朝鮮半島南東海上でロシアの太平洋捕鯨漁業所属の捕鯨船「ニコライ」号[14]、続いて「ミハイル」号を拿捕した[15][16]。2隻は長箭洞
艦歴
翌年の1905年(明治38年)6月15日に除籍[20]、残骸は1906年(明治39年)7月4日に民間に売却された。 ※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艦長
高桑勇 中佐:1899年7月25日 - 9月29日
松本有信 中佐:1899年9月29日 - 1900年6月7日
八代六郎 中佐:1900年6月7日 - 1901年10月1日
小橋篤蔵 中佐:1901年10月31日 - 1903年7月7日
川島令次郎 中佐:1903年7月7日 - 9月26日