宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう・1660年? 1740年)は、江戸時代中期の浄瑠璃の太夫。京都の生まれ。都国太夫半中、都路国太夫、宮古路豊後、宮古路豊後掾橘盛村とも。
浄瑠璃(三味線音楽・語り物)の1つである豊後節の創始者で、師に一中節始祖の都一中。劇的というよりは情緒的、歌謡本位の艶のある芸風であり、京都、名古屋、そして江戸で人気を博した。後輩育成にも熱心で、高弟に宮古路文字太夫(常磐津節始祖)、弟子に宮古路加賀太夫(新内節始祖)、宮古路園八(宮園節始祖)、宮古路繁太夫(繁太夫節始祖)、宮古路志妻太夫、宮古路数馬太夫、宮古路綱太夫、宮古路豊太夫、宮古路島太夫、宮古路国太夫(林弥)などがおり、現存する8種類の浄瑠璃のうち6種類と関連が深く、その中でも一中節をのぞく5種類(常磐津節・富本節・清元節・宮園節・新内節)の浄瑠璃を輩出した点で、日本音楽史上とても重要な場所に位置している。
これら豊後節から派生した浄瑠璃は豊後系浄瑠璃と呼ばれており、常磐津節・富本節・清元節は合わせて豊後三流、これに新内節を加えて豊後四流とも呼ばれている。あまりの人気に豊後節は禁止令などが発令され、舞台出演禁止、稽古禁止などの厳しい弾圧を受けた。扇情的な詞章や語り口が、頻繁に起きた武士階級の子息令嬢の心中事件と関係づけられたのが原因と言われているが、一説では尾張藩の徳川宗春と親交があり、享保の改革を出した徳川吉宗との対立が、少なからず豊後節弾圧に関係しているというものもある[1]。また、豊後掾の髪形や長羽織を真似る文金風が一世風靡したと言われているが、年齢を考慮すると「文金風」も「豊後節弾圧」も高弟である宮古路文字太夫(のちの初代常磐津文字太夫)によるところが大きいという[2]。
宮古路豊後掾は1740年に没したあと、1746年に高弟であり養子でもある初代常磐津文字太夫によって浅草寺に供養[3]、慰霊碑が建立されている(戒名は還国院誉本自性居士)。また、1975年には折口信夫によって「文金風流」という名で戯曲化もされている。
豊後節の特徴
豊後節「睦月連理椿(むつきれんりのたまつばき)」が出世作であり、最高傑作と言われている。創作された新作は少なく、豊後節の段物集「宮古路月下の梅(江戸版)」「宮古路窓の梅