宮古丸
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宮古丸
基本情報
船種
貨客船
クラス宮古丸級貨客船
船籍 大日本帝国
所有者大阪商船
運用者 大阪商船
建造所大阪鉄工所桜島工場[1]
母港大阪港/大阪府
姉妹船八重山丸
那覇丸[2]
航行区域近海
信号符字MNJV→JKNE
IMO番号17079(※船舶番号)
就航期間3,581日
経歴
進水1914年7月18日[1]
竣工1914年9月2日[3]
最後1944年8月5日被雷沈没
要目
総トン数1,013トン(1914年)[4]
970トン(1943年)[1]
純トン数628トン(1914年)[4]
567トン(1943年)[1]
載貨重量1,276トン[1]
排水量2,027トン[1]
登録長58.06m(190.5フィート)[4]
垂線間長57.91m(190.0フィート)[1]
型幅9.75m(32.0フィート)[1]
登録深さ5.24m(17.2フィート)[4]
型深さ5.64m(18.5フィート)[1]
ボイラー石炭専燃缶
主機関大阪鉄工所製三連成レシプロ機関1基[1]
推進器1軸[1]
最大出力981IHP[1]
最大速力12.1ノット[1]
航海速力10.0ノット)[1]
航続距離不明
旅客定員二等:37人
三等:276人[1]
乗組員42名[1]
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宮古丸(みやこまる)は、大阪商船1914年(大正3年)に建造した内航用貨客船。九州や沖縄、台湾方面の定期船として運航された。太平洋戦争中の1944年(昭和19年)8月に徳之島近海を航行中、アメリカ海軍潜水艦により撃沈され、民間乗客ら約300人が死亡した。沖縄戦関連の戦没船として数えられることがある。

なお、琉球海運も1959年(昭和34年)に同名の貨客船「宮古丸」を建造している[5]
船歴

「宮古丸」は、大阪商船が、造船奨励法の適用を受けて[6]「那覇丸」「八重山丸」の同型船2隻とともに竣工させた小型貨客船である。建造所は姉妹船3隻で異なっており、本船は大阪鉄工所桜島工場で1914年7月18日進水して「宮古丸」と命名されたのに対し、「那覇丸」は藤永田造船所、「八重山丸」は神戸三菱造船所で建造された。船名は宮古島などいずれも沖縄の地名に由来するが、沖縄航路専用船として設計されたわけではなく、主に大阪港鹿児島港間の定期航路用として建造された船であった[2]

竣工した「宮古丸」は、大阪から神戸港を経由して鹿児島に至り、さらに奄美大島名瀬港を経て沖縄本島那覇港までも足を延ばす航路に就航した[6]。その後、先島諸島方面にも就航したが、1919年(大正8年)に沖縄県の要望に応えて、従来は「大義丸」(1492総トン)1隻だけであった大阪商船の鹿児島・那覇間の定期航路増強へ投入された[7]。1921年(大正10年)12月9日には、航海の途中で諏訪之瀬島の噴火を目撃し、観察記録を残している[8]1922年(大正11年)に「宮古丸」は鹿児島・基隆港間の定期航路へ移され、さらに1932年(昭和7年)には台湾東岸航路へ移っていたが、1937年(昭和12年)に鹿児島・名瀬・那覇間の定期航路に戻された[6]。また、1924年10月31日には西表島北北東海底火山の噴火を初めて観測している[要出典]。

1941年(昭和16年)の太平洋戦争勃発後も、「宮古丸」は基本的に鹿児島・名瀬・那覇を結ぶ定期民間船として運航された[6]船舶運営会の設置後は、その使用船の形式となっている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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