宮原眼科
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宮原武熊

生誕1874年12月13日
日本 鹿児島県川辺郡知覧村
(現・鹿児島県南九州市
死没不明
不明
死因不明
国籍 日本
教育愛知医学校
東京帝国大学医学大学専科、
ミュンヘン大学
ウィーン大学
ベルリン大学
医学関連経歴
職業医学者
分野眼科学
所属東京帝国大学伝染病研究所、
台湾総督府台南医院、
宮原眼科医院
受賞従六位

宮原 武熊(みやはら たけくま[1][2][注 1]1874年明治7年)12月13日[5] - 没年不明)は鹿児島県出身の医学者眼科医で、日本統治時代台湾における政治家。台湾台中市のスイーツ専門店「宮原眼科日出宮原眼科)」の由来として知られている。
人物

鹿児島県川辺郡知覧村(現・南九州市)で出生[5]

1900年(明治33)、愛知医学校(現・名古屋大学)卒業[5]

1901年(明治34)、東京帝国大学医科大学選科修了、地元知覧村に眼科医院開業[5]

1904年(明治37)、ドイツ留学[5]

1906年(明治39)、ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(ミュンヘン大学)で医学博士号(ドクトル・メディチーネ)[5]

1907年(明治40)、ウィーン大学オーストリア)とベルリン大学で眼科学専攻[5]

1908年(明治41)、鹿児島市に眼科医院開業[5]

1918年大正7)、東京帝国大学伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)で眼科細菌学を研究(大正13年まで)[5]

1923年(大正12)6月18日、帝国大学医学博士号取得[6]。同年東京市で眼科専門医院開業[5]

1925年(大正14)、台湾総督府医院(中国語版)台南医院(現・衛生福利部台南医院(中国語版))で眼科部長[5]、院長に就任[7]

同年退官し、東京で眼科開業[5]。その後台湾に再渡航し、1927年昭和2)に民間開業医として台中州台中市栄町に宮原眼科医院を開業[5]

1933年(昭和8)12月29日に陳?および台湾文化協会台湾民衆党を率いていた林献堂らとともに台湾人による台湾自治を目指す『東亜共栄協会』を設立し[8][9]、一時は1万人超の会員数となったが、次第に日本の右翼団体の圧力で劣勢となり、1936年に解散に追い込まれている[4](pp321-322)。

その後台中州の評議員となる[4](p323)。

1945年1月から11月まで台中州私立台中商業専修学校(現・私立新民高級中学(中国語版))2代目校長就任[4](p320)[2]

台湾から引き揚げる前の1946年に林献堂は、宮原が73歳と高齢であること、戦前の台湾社会への貢献してきたことから寛大な処置を請願する手紙を?介石に送っている[10]。戦後日本での宮原は没年も含めて消息は不明となっている。
政治家詳細は「:zh:1936年臺灣州會議員選舉」および「:zh:1940年臺灣州會議員選舉」を参照

台中州協議会会員[11]、台中州議会議員[12]、台中州州参事などを歴任している[13]
受章

1925年:従六位[5]
宮原別邸旧宮原邸、元台中市長公邸詳細は「宮原武熊宅邸(中国語版)」を参照

1929年(昭和4)に市内新高町(中国語版)(現・北区雙十路一段)に建てられた宮原の邸宅。州立台中一中(現・台中市立台中第一高級中等学校)付近に位置するバロック建築の洋館で[4](p328)、戦後長らく台中市長の公邸として使われていたが、文化資産登録を経てレストラン併設の高齢者福祉施設として活用されている[14][15]
宮原眼科
宮原眼科医院

宮原眼科
Miyahara Eye Hospital

レストラン情報
開店2012年1月9日 (2012-01-09)
現オーナー日出乳酪蛋?(中国語版)
台湾
台中市
住所中区中山路20号
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯24度08分16.2秒 東経120度41分00.4秒 / 北緯24.137833度 東経120.683444度 / 24.137833; 120.683444
台中駅から徒歩約5分
ウェブサイト ⇒http://www.miyahara.com.tw/
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地図

宮原は1927年に緑川に架かる新盛橋付近(現在の中山路と緑川東街交差点にある中山緑橋(中国語版))角地の煉瓦建て洋館に眼科専門の宮原醫院を開業。1933年(昭和8)時点では収容人員100人、24の病室を構え、私立病院としては市内平均の46人の倍以上となる、公立を含めても総督府台中医院でも146人だったことから、市内最大級の医療機関の一つともいえる[4](p319)[16]。宮原眼科は戦前の宮原眼科医院をリノベーションした飲食店の総称。

1945年に建物は中華民国政府が接収、台中市政府民政科衛生股(のちの台中市衛生院、現台中市政府衛生局(中国語版))が使用した[4](pp326-328)。


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