宮内 和之
生誕1964年5月30日
出身地 日本・東京都
死没 (2007-12-18) 2007年12月18日(43歳没)
学歴神奈川大学卒業
職業ギタリスト・音楽プロデューサー
担当楽器ギター
宮内 和之(みやうち かずゆき、1964年5月30日 - 2007年12月18日)は日本のギタリスト、音楽プロデューサー。音楽グループ『ICE』メンバーとして活動していたが、癌のため43歳で死去。 1964年(昭和39年)、東京都生まれ。幼少時代を目黒区東山の公務員住宅で過ごす。区立東山小学校、区立第一中学校、東京都立広尾高等学校を経て、神奈川大学へ進学。小学生時にギターを始め、高校生時には本格的な音楽バンドを結成した。バンドはメンバー・チェンジを繰り返し、1993年(平成5年)、国岡真由美とのユニットICEでメジャー・デビュー。主なヒット曲に『Moon Child』、『BABY MAYBE』、『Yes,I Do』(花王"リーゼ"TV-CFイメージソング)、『Love Makes Me Run』("face 2"エンディングテーマ)などがある。 ICEではギタリストの他、ほとんどの楽曲の作詞・全作曲・全編曲を手がけメインボーカルをとる時もあった。GIBSONの専属プレイヤー、国内モニターを務めた。ソングライターとしても広く活動、AYUMI SHIMIZUの『蝶』の作曲やMihimaru GTの楽曲の編曲などを手がけた。 私生活では、『ICE』のボーカルであった国岡と結婚するも、 2007年(平成19年)12月18日午前9時30分、耳下腺癌のため東京都内の病院で死去した。闘病5年、43歳没。 悪童だった宮内和之が音楽にのめり込むきっかけとなったのは、中学校時代の音楽教師による「罰としての居残り楽器演奏会」だった。放課後、音楽室で様々な楽器に触れ演奏する楽しさを知ってからの彼は『高校はダブり』、『大学に7年通った』ほど音楽に傾倒するようになった。 人脈が広く、COSA NOSTRAやウルフルズとも共演することがあり、多くの音楽家に「兄貴」と慕われた。 ウルフルズの「大阪ストラット・パートII」のラップ歌詞の中に登場する『お?い、宮内クン』は、当時東京で遊び仲間だった宮内のことを指しており、同曲のミュージック・ビデオではトータス松本が宮内に扮している。 斉藤和義のアルバム『FIRE DOG』収録の「通りに立てば」(アルバム・バージョン)には「飛ばすぜ!宮ニィ」という副題が付いているが、宮内のこと。デビュー当時、所属事務所が同じシンコーミュージック・エンタテイメントだったため、作品参加ライヴ出演など、公私共に交流があった。
人物
エピソード
提供曲
AMON(林亜門)
GMN(URBAN BOOGIE/2002年2月14日)
SAKURA
HEART OF GOLD(daylight/2000年2月16日)
フジテレビ系「HEY!HEY!HEY!」エンディング
清水あゆみ(Ami)
Help me darling(1996年4月10日)※デビュー作
ハイビスカスになるつもりでいたの(4:30am /1997年3月26日)
エキセントリックガール
曇リノチ晴レハ
蝶
うごかない月
アタシの髪が伸びるとき
BABY BABY
FLUTTER
LET'S GO TO THE PARADE
※NTV系「独占スポーツ情報」挿入歌
ダンス☆マン
つながってるよFUNK(MIRRORBALLISM4?NEW GENERATION/2002年2月27日)
VOICE OF JAPAN
FREE YOURSELF
SHINE ※「デムコ・Aローション」CM
真琴つばさ
DON'T STOP THE BEAT(WISH.../2002年1月23日)
MIE
LOVE JAIL(LOVE JAIL/1995年11月25日) ※武富士CM
和久井映見
いつか忘れましょう(Dearest/1996年1月25日)
海辺の休日
平松八千代
BACK TO ME(TRAVELLING SOUL /2004年10月27日)
KISS
LOVE IS BLUE
RESCUE ME
Crude Reality
INTO MY BRAIN(Exterior World/2005年3月9日)
宇都宮隆
REFLEXION (アルバム『TEN to TEN』/2002年7月31日)
工藤静香
WONDERFUL MOMENT (アルバム『Jewelry Box』/2002年7月3日)