宮ヶ瀬ダム
左岸所在地神奈川県相模原市緑区青山
神奈川県愛甲郡愛川町大字半原
右岸所在地神奈川県愛甲郡愛川町大字半原
神奈川県愛甲郡清川村大字宮ヶ瀬
位置.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度32分32秒 東経139度14分57.6秒 / 北緯35.54222度 東経139.249333度 / 35.54222; 139.249333
宮ヶ瀬ダム(みやがせダム)は、日本の神奈川県に位置する、一級水系 相模川水系中津川に建設されたダム。愛甲郡愛川町半原、相模原市緑区青山、愛甲郡清川村宮ヶ瀬という、神奈川県の3市町村に跨る地域に所在する。形成されたダム湖は宮ヶ瀬湖という。2000年(平成12年)竣工の重力式コンクリートダムで、治水を主とする特定多目的ダム。 日本で早期から河川総合開発事業が展開された相模川では1947年(昭和22年)に相模ダムが完成し、1965年(昭和40年)には城山ダムも完成した。だが、その後も相模川流域では人口の増加が進行し、上水道や工業用水道の需要は2ダム完成後も供給が追いつかない状態にあった。更に元来氾濫原であった地域への宅地化の進行は相模川の治水安全度を低くし、水害の際には大きな被害が予測されたが堤防の建設や川幅拡幅は用地の取得が困難であった。加えて東海道新幹線や東名高速道路といった日本の大動脈が開通するにおよび、万全の治水対策が求められるようになった。 神奈川県内の相模川水系では流域面積の大きい中津川は、合流点より下流に厚木市などの人口密集地帯があり、特に治水の重要性が指摘されていたことからダムによる洪水調節が計画された。当初は「中津川ダム」として計画されていたが、計画の拡大により「宮ヶ瀬ダム」と称されるようになった。1969年(昭和44年)に建設省(現・国土交通省)が「宮ヶ瀬ダム建設計画」を発表し、ダム建設のための予備調査が開始され、2年後の1971年(昭和46年)より特定多目的ダム事業としてスタートした。堤高156.0mの重力式コンクリートダム、総貯水容量約2億トンという首都圏最大のダム計画は難航する補償交渉を経て、「21世紀への贈り物」というキャッチフレーズ通り[1]、計画発表から31年後の2000年(平成12年)12月に完成を迎えた(12月2日に竣工式を実施[2])。関東地方では奈良俣ダム(楢俣川・158.0m)に次ぐ高さで浦山ダム(浦山川・156.0m)と並び、総貯水容量は奥多摩湖(小河内ダム)や奥利根湖(矢木沢ダム)に次ぐ関東屈指の大ダムである。 2019年(令和元年)10月12日、令和元年東日本台風(台風19号)による降雨の影響で運用開始後初めての異常洪水時防災操作(緊急放流)が検討された[3]。
沿革