.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}室生(むろう) 犀星(さいせい)
59歳の室生犀星(1948年)
誕生室生 照道(むろう てるみち)
1889年8月1日
石川県金沢市
死没 (1962-03-26) 1962年3月26日(72歳没)
東京都港区虎ノ門
墓地野田山墓地(石川県金沢市)
職業詩人・小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴長町高等小学校中退
活動期間1913年 - 1962年
ジャンル詩、小説、俳句、随筆
主題近代抒情詩
文学活動理想主義
代表作『愛の詩集』(1918年)
『抒情小曲集』(1918年)
『性に目覚める頃』(1933年)
『あにいもうと』(1934年)
『杏っ子』(1957年)
『かげろうの日記遺文
室生犀星(むろう さいせい、1889年〈明治22年〉8月1日 - 1962年〈昭和37年〉3月26日)は、日本の詩人・小説家。石川県金沢市出身。本名は室生 照道(むろう てるみち)。別号に「魚眠洞」、「魚生」、「殘花」、「照文」。別筆名は「秋本 健之」。日本芸術院会員。
姓の平仮名表記は、「むろう」が一般的であるが、犀星自身が「むろう」「むろお」の両方の署名を用いていたため、現在も表記が統一されていない。室生犀星記念館は「「むろお」を正式とするが、「むろお」への変更を強制するものではない」としている。[1][注釈 1]
生後すぐ養子に出され、室生姓を名乗った。養母は養育料で享楽しようとするような女で、犀星は生母の消息をついに知ることなく、貰い子たちと共同生活を送る。
養母により高等小学校を中途で退学させられ、金沢地方裁判所に給仕として勤めさせられるが、この頃より文学に関心を抱いて、やがて上京する。しかし生活は苦しく、故郷に戻っても、出生・学歴などの理由で失恋し、東京と金沢との間を往きつ戻りつする。この間にうたわれたのが絶唱「小景異情」である。
1915年、萩原朔太郎・山村暮鳥らと詩誌「感情」を創刊。1918年に刊行した『愛の詩集』と『抒情小曲集』は詩壇に新風を吹き込んだ。1919年、小説「幼年時代」「性に眼覚める頃」を発表し、小説に活動の場を移した。長い沈黙のあと、1934年に「あにいもうと」を発表。第2次世界大戦後も沈黙があったが、1956年の『杏っ子』で復活をとげ、その後は小説家として名を上げた。 1889年(明治22年)、金沢市裏千日町に生まれる[2]。加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種と、その女中であるハルの間に私生児として生まれた[注釈 2]。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗)住職だった室生真乗の内縁の妻、赤井ハツに引き取られ、ハツの私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この時から室生照道を名乗ることになった。私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出された生い立ちは、犀星の文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と蔑まれた犀星は、生みの母親についてのダブルバインド(二重束縛)を背負っていた[要出典]。『犀星発句集』(1943年)に収められた「夏の日の匹婦[3]の腹に生まれけり」 との句は、犀星自身50歳を過ぎても、このダブルバインドを引きずっていたことを提示している[要出典]。 1896年(明治29年)2月室生真乗の養嗣子となる。 1898年(明治31年)3月実父小畠吉種死去。このあと実母ハルは行方不明となる。 1900年(明治33年)4月金沢高等小学校に入学。 1902年(明治35年)5月長町高等小学校を3年で中退し[4][注釈 3]、義母の命令により[5]、義兄真道の勤務する金沢地方裁判所に給仕として就職[注釈 4]。海月寺の庫裏を下宿先としていた[6]。 1903年(明治36年)頃より裁判所の上司に河越風骨[注釈 5]、赤倉錦風といった俳人があり手ほどきを受け[注釈 6]、文学書に親しみ始める。俳句会への出席および新聞への投句を始め[注釈 7]、1904年(明治37年)10月8日付け『北國新聞』に初掲載。第四高等学校教授藤井乙男(紫影)が俳句欄の選者であった[注釈 8]。この時の号は照文(てりふみ)[7] 。その後詩、短歌などにも手を染める。 1905年(明治38年)勤務先で回覧雑誌をつくる。 1906年(明治39年)『文章世界』3月創刊号に小品の文章が初入選する。使用した号は、室生殘花。また、北國新聞その他に俳句が掲載され始める。なお、犀星を名乗ったのはこの年からである。犀星という筆名は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、犀星はこの川の風情と、上流に見える山々の景色とをことの外愛した。 1907年(明治40年)『新聲』7月号に児玉花外の選により詩「さくら石斑魚に添へて」が掲載される。この頃から詩作も始める。 1908年(明治41年)5月同郷の友人である表棹影、尾山篤二郎、田辺孝次らと「北辰詩社」結成。初の小説「宗左衛門」が『新聲』8月号に掲載される。第八高等学校に転出した藤井乙男の後任大谷繞石と識る[2]。 1909年(明治42年)1月、金石登記所に転任。2月、尼寺に下宿する。北原白秋から強い影響を受け、「かもめ」「海浜独唱」を作詩。4月表棹影病没。この頃徴兵検査を受けるが、丙種合格。9月裁判所退職。10月福井県三国町の『みくに新聞』に就職するが、社長と衝突[注釈 9]。12月に退社し、金沢に戻る。 1910年(明治43年)1月京都旅行。藤井紫影の紹介で上田敏を訪問する。福井を経て金沢に戻り、2月金沢の『石川新聞』に入社するが、2ケ月ほどで退社。5月裁判所時代の上司であった赤倉錦風を頼り上京し、下谷根岸の赤倉家に止宿する。さらに、北原白秋、児玉花外を訪問。赤倉の薦めで、東京地方裁判所の地下室での裁判関係の筆耕に通う[8]。7月本郷根津片町で下宿開始。このあと谷中三崎町、千駄木林町などを移り住む。 1911年(明治44年)7月生活上の困苦と夏の暑さのため帰郷。10月再び上京し、駒込千駄木町に下宿。
経歴