宣旨_(役職)
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この項目では、上級女性使用人である女房の筆頭について説明しています。天皇など貴人の口頭命令および公文書については「宣旨」をご覧ください。

宣旨(せんじ)は、公家社会の上級女性使用人である女房の筆頭。俗称は、せじ[注釈 1]天皇後宮十二司でいう典侍(女官長)に相当する最高職。わかりやすく言えば、第一秘書のような立場である[2]。主に中宮東宮斎院に設置され、このほか斎宮院(上皇)摂政関白などにも置かれることがあった。貴人の口頭命令である宣旨を取り次いだのが由来だが、渉外役だけではなく、主人に直属する女房集団を統括し、主人が女性である場合はその代理人的存在であるなど、高い職責を有した。800年前後、藤原薬子が安殿親王(のちの平城天皇)の東宮宣旨に補任されたのが史料上の初見。

中宮(皇后らを含む)に仕える中宮宣旨は「宮の女房」の長であり、天皇に仕える「上の女房」の長である典侍とほぼ同格の顕職と見なされた。中宮に次ぐほどのきわめて高貴な身分の女性から選ばれ、中宮の姉妹であることもあった。中宮の緊急事には、宣旨が指揮を取ってその善後策を講じた。家格・知性・実務・教養のいずれを取っても同時代の最高峰で、勅撰歌人であることも珍しくなく、主人の代詠も行った。既婚者でも働き続ける者が多く、妊娠・出産後の職場復帰も広く認められていた。忠誠心も高く、主人の出家や崩御に殉じて出家したり、主人の子に仕えたりする場合が多かった。ただ、11世紀半ばから末には半ば名誉職化して序列第二位に落ち、中宮御匣殿が「宮の女房」の首座になったという。鎌倉時代の序列は宣旨と御匣殿のどちらが上かは不明。代表的存在に、一条天皇中宮藤原彰子に仕えた源陟子三条天皇中宮藤原妍子に仕えた大和宣旨後醍醐天皇中宮西園寺禧子に仕えた二条藤子らがいる。

東宮(皇太子)に仕える東宮宣旨は、主に弁官受領などの中級貴族の娘から選ばれ、幼少期の乳母の一人が昇格する場合が多かった。東宮の乳母と共に女房集団を率い、しばしば乳母より上位の筆頭に置かれた。東宮の即位後は典侍に補任されることが多く、長年の功績によって従三位に叙されることもあった。

斎院宣旨は、両賀茂神社に奉仕する未婚の皇女・王女である斎院に仕える宣旨で、弘仁元年(810年)の斎院設立後間もなくから置かれた。斎院の乳母の一人が昇格することが多かった。中宮宣旨と同様、文学的能力に優れていた者も少なくはなかった。その代表は、作家の六条斎院宣旨である。

中宮や東宮にとっての最大の側近の一人という立場から、王朝物語では重要な脇役として登場することもある。その場合、機知を活かして主君を助ける役として登場することが多い。作家の六条斎院宣旨は自身が斎院宣旨経験者であるが、その著『狭衣物語』では斎院宣旨がヒロインの補佐役として登場する。散逸したが、『心高き東宮宣旨』という宣旨を主役にした物語も存在した。
職務
発祥

日本の公家社会における高位の女性使用人である女房の中でも重職とされるのが、宣旨・御匣殿内侍の三役で、宣旨はその筆頭である[3]院(上皇)東宮皇太子)・中宮斎宮斎院摂政関白などに置かれた[3]

その起源・職務については、古くは和田英松官職要解』(1902年)で、立后の時に宣旨(天皇・上卿の命令)を取り伝えたために、「中宮の宣旨」「宮の宣旨」ともいった、とあり、この説が定説だったこともあった[3][注釈 2]。しかし、実際には、中宮宣旨・中宮御匣殿・中宮内侍らは、立后の儀の「後」に令旨(皇后らの命令)によって決められており(『小右記』天元5年(982年)藤原遵子立后記事など)、『官職要解』説は誤りであることが指摘されている[3]

女房としての宣旨の史料上の初見は、皇太子安殿親王(のちの平城天皇)の東宮宣旨を務めた藤原薬子である(『日本後紀弘仁元年(810年)9月12日条)[1]。これは公文書としての宣旨が普及し出した延暦年間以降(782年以降)と近いため、その発祥・職務もおそらくそれと重なると考えられる[5]。諸井彩子によれば、貴人の宣旨(口頭による指示・命令)を別の者に取り次ぐのが本来の職務ではないか、という[5]。これは、天皇の後宮十二司においては典侍掌侍が担当する職務であるから、宣旨もまた典侍・掌侍同様の職責を持っていたと考えられる[5]
中宮宣旨

中宮宣旨は、天皇の正妃である中宮に仕える宣旨である[6]皇后や、正妃としての皇太后もここに含まれる[6]。天皇付きの女房を「上の女房」(公的な官職である後宮十二司を含む)と言うのに対し、中宮付きの女房を「宮の女房」と言い[7]、宮の女房の筆頭が中宮宣旨である[6]。宮の女房は、中宮の実家の父が選ぶことが多かった[7]

中宮宣旨の出自は、上級貴族である公卿の娘であることがほとんどである[8]。仕える中宮の姉妹である場合もあり、円融天皇皇后藤原遵子の中宮宣旨は姉の詮子が務め、円融天皇皇太后藤原詮子(前記の詮子とは別人)の中宮宣旨は自身の異母姉妹が務めた[9]。公卿の娘の場合は、後ろ盾となる父が薨去した女性が、中宮宣旨として入る場合が多い[8]。中宮の幼少期からの乳母が宣旨に昇格した場合もあるが、どちらかといえば中宮と同世代の女性であることが多い[8]

主人の中宮が流産・崩御など非常事態にあった時は、その代行として指示や命令を伝達し、また善後策を講じるなど、高い職責を有した[8]後一条天皇中宮藤原威子が流産した際には、二条院宣旨は後一条典侍の藤三位を呼んで二人で緊急の対応を協議しており(『左経記』長元8年(1035年)6月23日条)、天皇側の典侍・掌侍と職務が基本的に重なることを示している[8]宣旨(貴人の口頭命令)の名の通り、中宮の命令系統を代理で司る立場であり、二条院宣旨は威子の命を取り次いで、歌人の出羽弁に出仕を促す文章を書くなどしている[8]。また、中宮の顔であり、渉外役も担当した[8]

教養も非常に高く、様々な歌集・歴史物語・日記に中宮宣旨の歌が残っている[6]宇多天皇皇太夫人の藤原温子の宣旨は、部下の伊勢との贈答歌が勅撰和歌集後撰和歌集』に入集[8]一条天皇中宮の藤原彰子の宣旨だった源陟子は、和泉式部が彰子に贈った歌に対し、彰子に代わって返歌を詠んでいる(『栄花物語』巻15)[10]


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