宣公 姜積
斉
公(周制における爵位は侯)
王朝斉
在位期間前456年 - 前405年
姓・諱姜積
諡号宣公
没年前405年
父平公
宣公(せんこう、? - 紀元前405年)は、春秋戦国時代の斉の君主。姓は姜、諱は積[1]。 斉の平公の子として生まれた。紀元前456年、平公が死去すると、後を嗣いで宣公が斉公として即位した[2]。田盤(田襄子)が斉の宰相をつとめた。晋の趙無恤・魏駒・韓虎らが智瑶を攻め滅ぼして、智氏の領地を三分すると、田盤は趙・魏・韓と使者を通交させ、斉の外交関係を安定させた。田盤が死去し、田白(田荘子)が斉の宰相となった。紀元前413年、斉軍は晋を攻撃し、黄城を破壊し、陽狐を包囲した。紀元前412年、魯・葛および安陵を攻撃した。紀元前411年、魯の一城を奪った[3]。この年、田白が死去し、田悼子が斉の宰相となった[4]。紀元前408年、魯の?を奪った。紀元前407年、鄭の大夫と西城で会合した。衛を攻撃し、?を奪った[3]。紀元前405年、宣公は死去し、子の康公が後を嗣いで斉公として即位した[2][5]。
生涯
脚注^ 『史記』斉太公世家による。同書六国年表によると、諱は就匝。
^ a b 『史記』斉太公世家
^ a b 『史記』田敬仲完世家
^ 『史記索隠』田敬仲完世家所引『竹書紀年』
^ 『史記索隠』田敬仲完世家所引『竹書紀年』によると、宣公51年に公孫会(田会)が廩丘で趙に叛いた。12月に宣公が死去した。周正では明年2月にあたるという。
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