宣仁親王妃喜久子
[Wikipedia|▼Menu]

宣仁親王妃 喜久子
高松宮家
1930年代撮影
続柄有栖川宮威仁親王の外孫

身位親王妃
敬称殿下
お印撫子
出生1911年12月26日
日本東京府東京市小石川区
第六天徳川邸
死去 (2004-12-18) 2004年12月18日(92歳没)
日本東京都中央区
聖路加国際病院
埋葬2004年12月27日
豊島岡墓地
配偶者高松宮宣仁親王
父親徳川慶久
母親徳川實枝子
役職高松宮妃癌研究基金名誉総裁
テンプレートを表示

宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年明治44年〉12月26日 - 2004年平成16年〉12月18日)は、日本皇族。元華族高松宮宣仁親王の妃[1]。 旧名、徳川 喜久子(とくがわ きくこ)。徳川慶久[注釈 1]公爵令嬢。母は有栖川宮威仁親王の第2王女・實枝子女王身位親王妃お印は初めが(かめ)、結婚後は撫子(なでしこ)。
生涯
生い立ち

1911年明治44年)12月26日、誕生。母・實枝子は、有栖川宮威仁親王の王子女でただ一人、夭逝を免れた。

1912年(明治45年)4月12日、両親に連れられ舞子別邸(兵庫県)で静養中の祖父有栖川宮威仁親王の元を訪れると、威仁親王は当時唯一の孫である喜久子を「喜久女、喜久女」と呼び可愛がったため、慰子妃の勧めで、夫妻はそのまま喜久子を舞子別邸に預けて帰京した[2]

1913年大正2年)6月22日、病状が重篤となった威仁親王の元に宮内大臣渡辺千秋伯爵が派遣され、大正天皇第3皇男子の宣仁親王(当時8歳)に「高松宮」の称号を与えて有栖川宮家の祭祀を継承させる内諭が伝達された[3]。威仁親王は翌7月10日に薨去し、国葬が執り行われた。祖父の死をまだ理解できない喜久子が折り紙の鶴を折ったり、棺の中の祖父に会いたいとせがむ姿は、人々の涙を誘った[4]

こうして有栖川宮の祭祀を継承する宣仁親王の妃として、有栖川宮の血を受け継ぐ喜久子が擬された。喜久子自身も、後年、著書の中で2歳当時に結婚が決まったとしている[5]
高松宮妃として1930年(昭和5年)、ドイツにて高松宮と。ベルリンのホテル・アドロン前

1929年昭和4年)に女子学習院本科を卒業。翌1930年(昭和5年)2月4日、18歳で宣仁親王と結婚[6]。同日付で、勲一等に叙され、宝冠章を授与された[7]明治天皇の孫と徳川慶喜の孫の結婚とあって、「公武合体」と話題を呼んだ。

その2か月後、昭和天皇の名代となった宣仁親王と共に14か月にわたり欧米を歴訪した。1930年(昭和5年)には日本赤十字社名誉社員の称号を受ける。

実母の實枝子を結腸癌で亡くしたのを機に癌の撲滅に関わるようになる。1934年(昭和9年)には、財団法人「がん研究会」(癌研・がん研)にラジウムを寄付し、その後も癌研を支援した。1949年(昭和24年)からは日本赤十字社の名誉副総裁に推戴された。

1968年(昭和43年)には、高松宮妃癌研究基金の設立に関与するなど、生涯を通して癌撲滅に関与した。しかし、後に夫・宣仁親王を肺癌で失い、さらに晩年は自らも癌と闘うこととなった。

1987年(昭和62年)2月3日、宣仁親王と死別する。その6年後に発見された親王の日記は、1921年(大正10年)1月1日から1947年(昭和22年)11月にかけての、皇族および海軍の貴重な資料で、喜久子妃により1995年(平成7年)から『高松宮日記』(中央公論社)全8巻として刊行された[注釈 2]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef