宣仁皇后
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高皇后
北宋の皇后
宣仁皇后高氏
在位嘉祐8年4月29日[1] - 治平4年1月10日
1063年5月29日 - 1067年1月27日

別称宣仁聖烈皇后
出生明道元年7月16日[2]
1032年8月24日
亳州蒙城県
死去元祐8年9月3日
1093年9月26日
開封府、崇慶宮
配偶者英宗
子女神宗
陳国長公主(恵和帝姫)
趙(呉栄王)
趙顔(潤王)
蜀国長公主(明恵帝姫
韓国魏国大長公主(賢徳懿行帝姫)
父親高遵甫
母親曹氏
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宣仁皇后(せんじんこうごう)は、北宋英宗の皇后。1085年から1093年までの間、太皇太后として臨朝称制した。姓は高氏、幼名は滔滔(とうとう)。宣仁太后とも呼ばれた。
生涯

亳州蒙城県の人。高遵甫と曹氏(仁宗の皇后曹氏の姉)の娘として生まれた。慶暦7年(1047年)、団練使趙宗実(後の英宗)にとつぎ、京光郡君となった。夫婦仲は良く、趙?(後の神宗)など多くの子供を産んだ。

嘉祐8年(1063年)4月1日、仁宗が崩じた。男子がなかったので、曹皇后が宗室のうちから、仁宗の従兄の子である趙宗実を帝位に即かせた。4月29日、高氏は皇后に立てられた。治平4年(1067年)正月に英宗が崩じて長男の神宗が立つと、皇太后となった。

元豊8年(1085年)3月、神宗が崩じて幼い哲宗が立つと、太皇太后となり垂簾聴政した。高太后は旧法を回復するよう努め、司馬光・呂光著らを起用して新法派を排斥し、熙寧・元豊年間に立てられた法を廃止していった。当時まだ少年であった哲宗には反対され、祖母と孫の間は険悪になった。

元祐8年(1093年)9月、崩じた。 哲宗は実の祖母の廃位を準備したが、母の朱太妃が諫言したので取りやめた。
逸話

仁宗の男子がことごとく夭逝したため、仁宗の従甥である趙宗実(後の英宗)は幼くして宮中で養育され、その際に
曹皇后の姪で同年齢の高滔滔と幼馴染になった。その後、張氏(温成皇后)が仁宗の寵愛を独占し、仁宗は張氏に男子が生まれるのを心待ちにして、趙宗実を実家へ戻した。結局、張氏には薨去するまで男子が生まれなかった。

曹皇后は高氏を一度は仁宗に勧めたが、仁宗は「そなたの近親の成長を待ってはおれぬ。宗実が成長すれば、その妻にふさわしかろう」と言って拒否した(高氏が生まれたのは曹氏が皇后になる2年前で、仁宗の22歳下になる)。

曹太后は高皇后に対し、英宗の妃嬪が少ないことをとがめた。高皇后は腹を立て、「私は団練使に嫁ぎました、皇帝に嫁いだのではありません」と応じた。

子女

趙?(神宗)

陳国長公主(恵和帝姫)

趙(呉栄王)

趙顔(潤王)

蜀国長公主(明恵帝姫

韓国魏国大長公主(賢徳懿行帝姫)

脚注^ 『宋史』巻13, 英宗紀 嘉祐八年四月庚子条による。
^ 『宋史』巻112, 志第六十五 禮十五

伝記資料

『続資治通鑑長編』

宋史

『宋会要輯稿』

関連項目

新法・旧法の争い










の皇后
北宋

昭憲杜太后* / 孝恵賀皇后* / 孝明王皇后 / 孝章宋皇后 / 淑徳尹皇后* / 懿徳符皇后* / 明徳李皇后 / 元徳李皇后* / 章懐潘皇后* / 章穆郭皇后 / 章献劉皇后 / 章懿李太后* / 章恵楊太后* / 仁宗郭皇后 / 慈聖曹皇后 / 温成張皇后* / 仁宗張皇后* / 宣仁高皇后 / 欽聖向皇后 / 欽成朱皇后* / 欽慈陳太后* / 昭慈孟皇后 / 昭懐劉皇后 / 顕恭王皇后 / 顕粛鄭皇后 / 明達劉皇后* / 明節劉皇后* / 顕仁韋皇后* / 仁懐朱皇后
南宋

憲節?皇后 / 憲聖呉皇后 / 成穆郭皇后* / 成恭夏皇后 / 成粛謝皇后 / 慈懿李皇后 / 恭淑韓皇后 / 恭聖楊皇后 / 寿和謝皇后 / 度宗全皇后
*:追封皇后


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