客室乗務員
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「エアガール」はこの項目へ転送されています。テレビドラマについては「エアガール (テレビドラマ)」をご覧ください。
乗客に座席を案内するオーストリア航空の客室乗務員

客室乗務員(きゃくしつじょうむいん)は、交通機関の運行(運航)中、主として客室における乗客への接客サービスに従事する乗務員[注釈 1]である。

運航中の旅客機の客室において緊急時の誘導などの保安業務や乗客へのサービスを行う乗務員はキャビンクルー、キャビンアテンダント(CA)、フライトアテンダント(FA)と呼ばれることが多い。前二者は船舶でも同じように呼ぶ。

本記事においては、旅客機の客室乗務員について詳述する。客船鉄道の客室乗務員については「乗務員」を参照
日本での呼称

かつては船舶の司厨員に由来する「スチュワード」(女性はスチュワーデス)の呼称が広く用いられていた。現在の日本では、テレビドラマなどの影響でキャビンアテンダント(和製英語)と呼ばれることが多い。

なお客室(キャビン)で勤務するキャビンクルーに対し、コックピットで勤務する操縦士機長副操縦士)・航空士(航法士)航空機関士航空通信士の5者はコックピットクルーと呼ばれ、日本の航空法では航空従事者かつ航空機乗組員に分類される。1990年代後半以降、一般の民間旅客機においてはほぼ操縦士のみとなっている。

初期には、男性乗務員はスチュワード、パーサー[注釈 2]、女性乗務員はエアホステス、エアガール、最近までスチュワーデスと呼ばれていたが、1980年代以降、アメリカにおけるポリティカル・コレクトネス[注釈 3]の浸透により、性別を問わない「フライトアテンダント」に言い換えられた影響で、この日本語訳である客室乗務員という言葉が正式とされるようになった。

スチュワーデスのことを省略してスッチーと呼ぶこともある。これを始めたのは、田中康夫と言われる[要出典]。航空会社内では「デス」も略称として使用されていた[1][2]。「スッチー」は過去の呼び名とされ、『三省堂国語辞典』では第8版から削除されている[3]

なお、客室乗務員に対する社内での呼称は、航空会社によっても相違がある。日本の航空会社である日本航空(JAL)では1996年9月30日で「スチュワーデス」という呼び名は廃止され、代わりに「アテンダント」が用いられている。同じく日本の航空会社の全日本空輸(ANA)では、1987年以降「スチュワーデス」に代わり「キャビンアテンダント」を用いている。
歴史
導入期デ・ハビランドDH.34キーマエアのダグラスDC-2と客室乗務員(1938年)

1919年から始まった航空機の客室内サービスは、副操縦士が行っていた。1922年4月、デイムラー・エアハイヤー(現・ブリティッシュ・エアウェイズ)がデ・ハビランドDH.34に「キャビン・ボーイズ」と呼ばれた少年3人を乗せたのが世界初の客室乗務員とされるが、その存在はお飾りだったという[4](飛行船としては1911年に、ドイツツェッペリンLZ10硬式飛行船が初の客室乗務員を乗務させた)。その後1926年にはアメリカのスタウト航空がデトロイトグランドラピッズを結ぶフォード トライモータにエアリエル・クーリエとして搭乗、1927年にエール・ウニオンが機内のバーにスチュワードを当たらせた。1929年にはパンアメリカン航空が本格的に訓練されたスチュワードを搭乗させ、好感の持てる若い男性の代名詞ともなった。

1930年5月15日にはアメリカのボーイング・エア・トランスポート社(現在のユナイテッド航空)が初めて女性の客室乗務員[注釈 4] を乗務させた。後に「オリジナル・エイト」と呼ばれることになる最初の8人だ。チーフのエレン・チャーチは看護師として働きながらパイロットとして飛ぶことを目指して訓練を受けていたが、その門戸が未だ女性には開かれないことを悟ると、看護師である自分を客室乗務員にするメリットを会社に訴えその座を勝ち取った。他の7人はエレンの同僚看護師である。当時まだ「危険な乗り物」というイメージがあった飛行機に女性の乗務員を搭乗させることで「女性も乗れるような安全な乗り物である」と乗客にアピールする意味合いもあったといわれる。

1930年代中盤以降のダグラス DC-2DC-3ボーイング247などの全金属製旅客機の導入がもたらした旅客機の大型化に伴い、アメリカだけでなくヨーロッパの航空会社でも次々と男女の客室乗務員を採用する航空会社が増えていき、第二次世界大戦の勃発以降は女性が多数派になっていった。

また日本においては1931年3月29日に東京航空輸送社が水陸両用の愛知式AB1型機(乗員2名、乗客4名)で飛ぶ東京―下田清水間の旅客路線にフェリス和英女学校を卒業したばかりの本山英子を「エアガール」として乗務させたのが始まり[5]。高倍率の試験を勝ち抜き共に採用された同期に和田正子と工藤雪江がいる。当時の機内サービスは紅茶に煎茶にビスケット、景色の案内や乗客との会話だったようで、エアガールの給料は1フライト3円。給料の安さに同年4月29日、3人は辞職を申し入れている[6]。なお、3人以前は男性の客室乗務員もおらず、パイロットが操縦しながら眼下の景色案内などを行っていた。その後日本航空輸送研究所日本航空輸送大日本航空も女性客室乗務員を採用し、エアガールの呼称は戦後まで残った[7]
1940年代-1950年代ダグラス DC-3 の前に立つ JAL スチュワーデス (1951年8月27日)1951年代の日本航空の客室乗務員。のちにもく星号墜落事故で失われる「もく星号」をバックに

1939年から1945年までの長きに渡り行われた第二次世界大戦が終結したことに伴い、戦勝国では戦後間もなく航空会社が営業を再開したほか、1940年代後半には世界各国で航空会社が次々と開業し、アメリカやヨーロッパの主要国においては旅客機での旅が一般層にも浸透することになる。

1950年代にかけては、ダグラス DC-4BやDC-6ロッキード コンステレーションなどの大西洋無着陸横断が可能な大型旅客機の就航により客室乗務員の採用数が増加し、それとともに女性の「花形職種」として持てはやされるようになった。

当時の日本では(大戦後の日本においては日本航空1951年[8]、ローカル線を運航する日東航空日本ヘリコプターが1952年に開業したが、旅客機は運賃が高額だった上、1945年8月の第二次世界大戦(太平洋戦争大東亜戦争))の敗戦以降、連合国の占領下で長期に渡り海外渡航が自由化されていなかったため、また占領終了後も外貨流出を防ぐために、国際線の乗客は渡航許可を受けた政府関係者や企業の業務出張者、留学生や外国人に限られていた。
1960年代1960年代のルフトハンザ航空の客室乗務員(後ろはボーイング707型機)1960年代の機内サービスの様子

その後1960年代に入り、ボーイング707ダグラス DC-8コンベア880などの大型ジェット旅客機の就航が各国で相次いだことで、座席供給数が激増し運賃が下がると共に、それまでは客船がシェアの大部分を握っていた太平洋横断や大西洋横断ルートにおいて完全に旅客機がその主導権を握ることになり、アメリカやヨーロッパの多くの先進国において旅客機での旅は完全に一般層に定着した[9]

また日本でも、それまでは海外渡航は業務や留学目的のものに限られていたものの、高度経済成長に伴う外貨収入の増加を受けて1964年4月1日に海外渡航が完全に自由化され、「ジャルパック」などの海外への団体観光ツアーが次々と発売されるようになった[8] 他、ルフトハンザドイツ航空シンガポール航空など外国航空会社の新規乗り入れが相次ぎ、外国航空会社による日本人客室乗務員の採用も急増した。しかし海外旅行はまだまだ一般層にとって高嶺の花であったこともあり、日本において客室乗務員は男女ともに「ステータス」の高い花形職業とされていた。

この頃日本において客室乗務員が高いステータスを付加されていたのは、外国語の素養がある人は海外と縁のある一部の階層に限られていたことや、航空運賃が高かったために外国に観光などで渡航することが少なかったこと、日本航空などの一部の日本の航空会社において、特に女性は入社時に家柄なども考慮されたこと、女性の場合は結婚の際に良い条件の相手にめぐり合う機会が多いと考えられてきたからである。また女性の場合は、給与など待遇が一般企業のOLに比べても格段に良かったこともその一つであった。
1970年代-1980年代1970年代のパンアメリカン航空の客室乗務員

ボーイング747マクドネル・ダグラス DC-10型機、エアバスA300型機などの座席数が300席を超える大型ジェット機の相次ぐ導入や、アメリカのジミー・カーター政権下における航空規制緩和政策(ディレギュレーション)の導入。そしてこれらの要因がもたらした航空会社間の競争の激化などにより航空運賃が下がり、飛行機での旅が大衆化してきた1970年代-1980年代以降は、アメリカやイギリスなどの欧米の先進諸国ではその「ステータス」は下がった。

しかし、海外旅行の大衆化が欧米の先進諸国に比べて遅れていた上、日本国政府の保護政策で航空会社同士の競争が活発でなく、さらに女性がその多くを占めた日本では、『アテンションプリーズ』(オリジナル版:1970年-1971年)、『スチュワーデス物語』(1983年-1984年)など人気テレビドラマの題材にもなり、1980年代になってもなお、女性の憧れる職業の上位として憧れの存在であった。

なお、この頃に導入された大型機を筆頭に、機内映画の上映や座席オーディオ、ハイテンプオーブンなどの最新設備が次々に導入され、さらに機材が格段に大型化し、さらに10時間以上の超長距離間の無着陸運航が可能になったことで、客室乗務員の機内外における仕事の内容も大きく変わることとなった。
1990年代-2000年代ガルーダインドネシア航空の客室乗務員

しかし、日本でも1980年代後半のバブル景気前後の円高を受けて海外旅行の大衆化が進み、大型機の大量導入に伴う採用人数の増加、競争激化を受けたコスト削減の影響を受けた大手航空会社における契約制客室乗務員(大手航空会社においては女性のみの採用)の導入を代表とした待遇の低下、女性側の意識変化や、ハードな職業であるとの認識の浸透により「客室乗務員」が昔と比べて、憧れだけの志願生は減り、特にステータスが高いものではないというように変革し[10]1990年代に入ると、女性の人気職業の一つではあるものの以前よりその人気は下がった。ガルーダインドネシア航空の客室乗務員

2001年のアメリカ同時多発テロ格安航空会社との競争激化の影響を受け、ユナイテッド航空ノースウエスト航空(現・デルタ航空)、アリタリア-イタリア航空など世界各国の大手航空会社が経営不振に陥り、会社更生法の適用を受け経営再建を行う中、日本人乗客のためだけに日本人の客室乗務員を乗務させる必然性が見直された。

このことなどにより、近年は外国航空会社の日本人客室乗務員の採用自体が以前に比べ格段に減り、これらの外国航空会社の日本人客室乗務員の乗務人数の減少と加齢化が進んでいる。さらに一部の外国航空会社では日本人客室乗務員に対して派遣制度を導入するなどその待遇も大きく低下している。

2001年に起こった9.11事件後、アメリカ合衆国ではテロリズムの2カ月後に、客室乗務員によるハイジャックやテロリストへの対処法を定めた法律が改正され、ハイジャック犯やテロリストを攻撃・制圧することを基本方針として、航空会社にも客室乗務員に護身術の訓練をおこなうことを義務付けている[11]

緊急時に関しても、新千歳空港で起こったJAL緊急脱出事件では、脱出時に手荷物を持ち出しする乗客を抑止しきれなかった客室乗務員に対し、保安要員としての職務を全うするようにとの報道がなされた。アメリカ合衆国では同時多発テロ以降、屈強な乗員を配置するエアラインもあると言い[12]、そもそも世界の旅客機では男性クルーが多いが、酔客やテロリストへの力での対応は、男性の職員の方が有利との側面もある。

2009年には、世界金融危機の影響を受けて経営不振が伝えられるブリティッシュ・エアウェイズが、数週間の無給労働を客室乗務員に対し要請した他、同じく経営危機が伝えられるエミレーツ航空が、先に内定した日本人客室乗務員の入社を無期限延期するなど、この傾向は進んだ。
現在

なお現在の日本においては、雇用形態の柔軟化を受けて、国内大手航空会社の中途採用では30代、経験者の有期限再雇用では40代での採用も可能になるよう変わりつつある[13]など、かつては「若いこと」が採用の条件であったが、その様な状況は変わりつつある。現在は子持ちの客室乗務員が採用される事も珍しくもない。
業務内容機内サービスを行う中国東方航空の女性客室乗務員


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