実隆公記
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『実隆公記』(さねたかこうき)は、室町時代後期の公家三条西実隆の記した日記。期間は、文明6年(1474年)から天文5年(1536年)までの60年以上に及ぶ。同時代の一級資料。記述は京都朝廷公家戦国大名の動向、和歌古典の書写など多岐に及ぶ。自筆本が現存し、1995年(平成7年)に重要文化財に指定された。
概要

室町時代後期の公家文化を理解するのに有用な史料である。鎌倉時代から室町時代前期の日記とは異なり、儀式に関する記述はわずかで、多くが禁裏への出仕、歌会、寺社参詣、火災や戦乱などの記述で占められている[1]。これは同時期の公家の日記に共通する特徴である。

高橋秀樹によると、実隆は「中世で一番の著述家」として群を抜いており、実隆なしに中世後期の文化を語ることはできず、『実隆公記』なしに中世後期の歴史を語ることもできない、としている[2]

実隆の死後400年以上にわたって、自筆の原本は三条西家に代々伝えられてきたが、太平洋戦争後に東京大学史料編纂所に移管され、同所に所蔵されている。翻刻版が、続群書類従完成会より刊行されている。
日記の形態
外形実隆自筆[3]『実隆公記』文明6年正月一日条の冒頭部分(東京大学史料編纂所所蔵[4]

最初の日記が書かれた文明6年(1474年)は、実隆は応仁の乱を逃れるために鞍馬に疎開していたが、乱が治まって帰京した翌年にあたる。このとき実隆は20歳となっている。以降、死の前年である天文5年(1536年)2月まで、60年以上にわたって日記が残っているが、数か月ないし数年にわたって空白の時期が見られる(たとえば、最初期の文明6年(1474年)には3月から7月までの記述がなく、出家の前後となる永正10年(1513年)?13年はごく一部の時期のみ記述があり、永正14年(1517年)?16年は全く記述が残っていない)。そのため、日記の記された期間は63年間であるが、わずかでも記載のある年は57年間になる[5]

表題(外題)がつけられていない巻も多いが、朝廷の要職にあった時期は多くが「雑記」「愚記」、出家後は「活套[6]」と記すことが多くなっている。本文は変体漢文、すなわち日本語を漢文調にして記述した文章で書かれており、ほぼすべての文章が漢字のみとなっている(当時の日記の多くはこの形態であった)。
装幀

大半の装幀に冊子巻子が用いられており、ごく一部が折り本と断簡で残されている[7]。初期の体裁が定まっていない時期から、冊子(文明15年(1483年)?長享元年(1487年))、巻子(長享元年(1487年)?永正9年(1512年))、再び冊子(永正10年(1513年)?天文5年(1536年))に変化している[8]

冊子は巻子に比べて閲覧の便が高いが、巻子であれば後から手紙などの他の文書を貼り次ぐことが可能になる。このため、実隆が朝廷の要職にあったときには巻子を採用し、重要な手紙は日記に貼り次いだり、紙背文書として残したりされた。なお、巻子本として書かれた日記には等間隔に山谷の折り目がつけられており、折り本として閲覧されていたことがわかっている[9]。後年は冊子形式を用いているが、これは実隆が政治の実際から離れ、出家した頃(永正13年(1516年))に符合し、実隆が日記を家記としてではなく、備忘録的なものと位置づけるようになったのではないかと推測されている[8]
日記の内容

実隆公記の書かれた時期は室町時代の後期あるいは戦国時代の前期にあたる時代であるが、戦乱の動向よりも歌会や古典の書写に関する記述が多くを割かれている[10]。また、当時の朝廷や幕府は政治の実態から離れた有閑無為の生活を余儀なくされており[11]、和歌や連歌の会に参加したり、囲碁将棋雙六などの賭け事に没頭したりする記述が多く見られる。
文化人として

連歌師の肖柏宗祇らとの親交を深め、とくに宗祇とは親密な交際となっていた。宗祇との交流は文明9年(1477年)に初めてその記述が見られ[12]長享2年(1488年)に宗祇が北陸に下向する際には「旅先で自分が死んだら、聞書などを実隆に譲る」と約束されるまでになり[13]延徳3年にも宗祇の越後下向に際し「和歌の相伝の文書一式を封をして実隆に預け、自分が帰京できないようなら実隆に譲る」と言い置かれている[14]。その他、宗祇からは何度か金銭的な援助を受けている[15]。宗祇にとっても、実隆は自身と朝廷との間の連絡役や相談相手として、なくてはならぬ存在となっていた[16]。宗祇が各地に下向する際、実隆に色紙・短冊・扇などに筆を染ませ、帰洛の際に礼銭や土産ものを持ってくるようになっていた。これが実隆の名を各地に知らしめることにもなった。

実隆公記には和歌や漢詩が多く収録されているが、その多くが連歌のほか、「和漢連句」と呼ばれる和歌の上の句(五七五)と五言律詩の一行を連ねたものである(実隆公記への収録は少ないが、漢詩(五言律詩)の一行)と和歌の下の句(七七)を連ねたものを「漢和(かんな)連句」という)。

明応4年(1495年)には、宗祇を中心に連歌集を編纂し、そこに実隆も加わった。2月から始まった編纂の作業は9月に完結し、『新撰菟玖波集』という名前となり、後土御門天皇の勅撰を得ている。実隆公記には、入選依頼の運動が激しくなり、そうした依頼を一切受け付けないことを申し合わせたこと、選句について猪苗代兼載と宗祇が激しく対立し、実隆が間に入って解決したことなどが記されている[17]

文学に優れ能筆家でもあった実隆は、『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』をはじめとする古典の書写や講読にも多く関わっていた。古今和歌集に関しては実隆が古今伝授の正系になるのであるが、これは宗祇から伝授されたものである。文明19年(1487年)4月に古今伝授に備えて精進生活に入ったのが最初と見られ[18]文亀元年(1501年)9月には伝授を受け終わったとの記述がある[19]。その他、日記に現れる作品のジャンルは寺社縁起や説話、軍記物などを含めて幅広く、すでに散逸して『実隆公記』でしか知ることのできない作品も存在する[20]。地方にも文化意識が高まり、実隆も求められてたくさんの古典を書写している。これらの書写が経済的に不安定だった三条西家の糊口をしのぐ手段でもあった(#三条西家の経済状態も参照)。

永正5年(1508年)から翌年にかけては、『周易』(易経)の書写に着手している。当時、周易は50歳までは学ばないようにされていた書物であり[21]、54歳となって実隆は決意したのであろう。

また、実隆は将軍家からも重用され、日記の最初の年である文明6年(1474年)には8代将軍足利義政が参内するときに実隆を是非呼ぶように言いつけ、実隆は酒宴の席にて三条西家の領地の回復について沙汰を受けている[22]。9代足利義尚は和歌を好み、当代の歌集である「打聞集」の編纂を企て、その担当に実隆も加えられた。もちろん実隆は朝廷にも登用されており、文明15年(1483年)には、後土御門天皇から義尚に対し、実隆を独占しないようにと注意されている[23]。また10代足利義稙(義材・義尹)にも重用されており、永正6年(1509年)には義尹から皇室に対する尊敬の念と献上金があり、実隆も好意を抱いている[24]
儀式・風習

実隆の時代には公家は政治の実際から外れ、朝儀として正式に行われた儀式は元日を含め、年に数回あるかどうかであった[25]。例年、『実隆公記』の元日は、これらの儀式について詳しく書かれているほか、朝廷の復興を望む記述が毎年のようになされている[26]

9月9日の重陽の節句にも、毎年のように「幸甚」であるとの記述がなされている。また、「日待」や「月待」として日の出や月の出を待って太陽や月を拝む風習もあった。日待の間、実隆が熱中していた将棋を何番も指していたという記述もある。

そのほか、5月に賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行われる競馬会神事(いわゆる賀茂競馬)を見物したり、10月には亥の子餅を食したりするなど、当時の風習を知ることができる史料ともなっている。
三条西家の経済状態

三条西家も、他の公家と同様に荘園からの収入などで生計を立てていた。三条西家の荘園は畿内を中心に美濃・尾張にも散在していたが、遠隔地からの収入は基準に大きく及ばないことが多く、経済的に不安定となる大きな要因となった。


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