実録シリーズ
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実録シリーズ(じつろく-)は、映画オリジナルビデオの一種で、ヤクザ映画の中でも実話を基に製作されたものをいう。
概要

1960年代映画に於いてそれ以前までは主流であった時代劇の廃退により、東映任侠映画を製作し、成功を収めた。それらは主に鶴田浩二高倉健が主演であり、「人生劇場」、「日本侠客伝シリーズ」、「昭和残侠伝シリーズ」などの代表作は、任侠をテーマにし正義が悪を倒すという、時代劇のころから受け継がれた単純なストーリーであった[1][2]。しかし1973年に公開された菅原文太主演・深作欣二監督の『仁義なき戦い』はそれまでとは違い、実際に起こった広島での抗争事件の当事者の一人が書いた手記をベースとしたノンフィクションを原作としており[3]、大ヒットした[4]。当時の東映のヤクザ映画は実録映画、実録路線と呼ばれた[5][6][7][8][9][10][11]。2020年には東映自ら、実録路線&アニメは東映のお家芸と発表している[12]
「実録」という呼称

こうした「実録」という呼称は、イタリアマフィアの実態を克明に描写した1972年の『バラキ』あたりから用いられるようになった、と書かれた文献もあるが[13]、『バラキ』と『仁義なき戦い』第一作の公開は1ヵ月しか違わず、『キネマ旬報』1972年11月下旬号の『バラキ』の特集でも「実録」という言葉は使われていない。1972年7月に『ゴッドファーザー』が日本で公開されて間もなく、東映岡田茂社長が「『ゴッドファーザー』は、東映任侠映画を大掛かりにしただけの作品。事実を避けて通らず、克明に描いたところに大衆を引きつける魅力がある。便乗企画といわれればそれまでだが、東映でも日本版マフィア映画を作るべきだ」と指示し、和製ゴッドファーザーとして『仁義なき戦い』の製作を決定した[1][14][15][16][17][18]。これが日本の「実録ヤクザ映画」の実質的なスタートであるが[1][15][16]、『キネマ旬報』1972年9月下旬号の「世界の映画作家」という記事で岡田は「時代の動きに応じて変わっていくが1972年の今求められているのは"実話性"の強いものではないか。『ゴッドファーザ』にしてもしかり。私は"実態映画"という名で呼ぶが、こういうものはスターシステムとは別の魅力が発揮される。東映でもこうした"実態映画"を大作の構えで作っていきたい。小さな作品にしたのでは魅力はない。同じやくざものでも『博奕打ち外伝』のような作品はスターを並べた伝統的なものとして今後もつくり、一方で『仁義なき戦い』のようなものを大がかりに撮って行きたい。政界を題材にするのもいい、警察内部の実態でもいい、週刊誌で話題になるバーの内部も面白いだろう。これなどは新しい形の"女性映画"になりうると思う」などと話し、この時点で、この後展開される「東映実録路線」のコンセプトを既に着想しており、さらに『キネマ旬報』1972年10月上旬号のインタビューでは「私は日本のアクション映画には限界があると思う。実際のギャングがいないのだから、現実と虚構の接点が薄いわけだ。欧米のそれをマネても当たらない。土壌が違うんで観客がバカにしちゃってる。日本のアクションは日本の中にあるものから考えなければならない。私もいろいろやったがやはり当たらなかった。欧米と日本ではヤクザの実態が違い過ぎるんだ」などと話しており[19]、「任侠映画」から「実録映画」への転換を構想していた[20][21][22]。1972年春の看板スター・藤純子の引退で、「任侠映画」に翳りが見え[11][14]、路線転換に悩んでいた岡田が暗中模索の中で閃いたのが「実録路線」「実録シリーズ」であった[7][14][23][24][25][26]。このインタビューでは岡田は"実録"という言葉は使っていないが、1972年9月1日に東映が笠原和夫に『仁義なき戦い』の脚本執筆を依頼したとき[27][28]、笠原は「"実録"という言葉を初めて聞いた。それで会社はいよいよロッセリーニをやるのかと思った」と話しており[29]、『ゴッドファーザー』が日本で公開された1972年7月から間もない同年夏の時点で、東映の関係者は実録という言葉を使っていたと考えられる。用語として定着するのは1972年11月21日に東映本社で『仁義なき戦い』の製作発表が行われ[30]、実録映画路線の第一弾として発表してからで[13][28][30][31][32]、「従来の任侠映画的なヤクザを美化したものでなく、実録の持つ迫力をドキュメンタリー・タッチのドラマとして、ヤクザの裏面を衝撃的に描く」と説明した[30]。1972年の暮れから『仁義なき戦い』第一作の公開が近づくにつれ、何枚もの宣伝ポスター、アド(広告)などを製作して、新聞に掲載したり、劇場内に次回作告知として貼り付けたが[33][34]、このポスターなどに、"実録シリーズ第一弾"、"日本の実録超大作"などと惹句(キャッチコピー)を入れて盛んに煽った[33][35][36][37]。実録ものは、覗き見趣味的な効果もあり、異様なパワーを持って観客に新鮮な感覚を与えた[38]
実録路線

『仁義なき戦い』の大ヒットにより、岡田社長が「実録路線」第二弾として、安藤昇主演映画に『やくざと抗争 実録安藤組』というタイトルを付け[23][24]、これもヒット[23][24][39]。ヤクザ映画のタイトルに「実録」という呼称が入ったのはこれが最初。映画のタイトルに「実録」という言葉が入った映画は、戦前には多かったが[40]、戦後はあまり使われていなかった[40]。岡田は強力な抵抗を押し切って[41]、これらを「実録路線」としてシリーズ化し、「任侠映画」からの転換を図り[17][24][25][41][42][43][44][45][46]、以降も実録ヤクザ映画が量産され[46][47]、「実録」という言葉も一気に普及する[13][35][48][49][50][51]。『宝石』1983年1月号の「実録/戦後日本映画史 人と事件とー最終回 任侠・実録で血路を開いた東映・岡田」という記事で、「映画史に一時期を画した東映の任侠映画もすでに下降線を迎え、それを象徴するかのように任侠映画の女王・藤純子が1972年3月公開の『関東緋桜一家』を最後に引退、スクリーンから消えていった。それは任侠路線の終焉ともいうべき出来事であった。また社内的には最盛期に肥大化した製作現場と製作要員の縮小という大きな問題もあって、好調を続けてきた東映が初めて直面する苦難のときでもあった。このとき任侠路線につぐ"実録路線"を考え出したのは新社長の岡田茂である。岡田は『日本映画界の最大の危機は1971年から1974年の三年間で、全部ダメになると思ったよ。それから10年間は各社とも体質改善に励んでどん底から這い上がり、それぞれに生きる道を身に着けた。ウチも落ち目になった任侠路線の次の手をと苦しんでいたとき、新人のライター(飯干晃一?)が書いた毛色の変わったシナリオが目についたんです。ある組織暴力の実態をモデルにしたもので、ナマの迫力があった。そのころアメリカ映画の『ゴッドファーザー』が大当たりで、イタリア映画の『シシリーの黒い霧』や『コーザ・ノストラ』といったマフィアの暴露物が話題になっていた。実在の暴力団をモデルにしているので、ちょっと危険はあるがとにかくやってみようというので、監督に深作欣二を起用して、まず第一作として作らせたのが『仁義なき戦い』で、これがヒットしたので実録路線でゆこうということにしたわけだ』とそのいきさつを語っている」と書かれている[14]。『コーザ・ノストラ』を日本で配給したのは岡田が作った[52]東映洋画だった[53]。『月刊創』1977年5月号のインタビューでは、任侠映画をスパッと切って、実録映画に転換した理由を「任侠映画がマンネリになったから止めたんではなく、観客が別の方向の映画に行くのを見極めただけです」と述べている[54]。京都時代の盟友で、同じ撮影所長としてしのぎを削った鈴木晰成大映京都撮影所長は、「沈没しかけた東映丸をそのつど立て直して航行可能にした、それが岡田という男の凄さだよ」と話していたという[55]

1973年1月13日に公開された『仁義なき戦い』は大ヒットにより、当時の東映では珍しいロングランが実施され、1973年2月2日までの三週間興行だった[56]。岡田が「実録路線」という言葉を使ったのは『仁義なき戦い』公開中と見られる1973年1月後半か2月頭のことで[57]、『週刊現代』1973年2月12日号の記事で「実録路線は、やくざものとはかぎらない」と話しており[57]、『仁義なき戦い』は公開前より続編の制作が決定していたともいわれ[58]、つまり1973年に実録映画のヒットが続いたから「実録路線」を敷いたのではなく、『仁義なき戦い』がヒットしたら「実録映画」を路線化しようと決めていたものと見られる。興味深いのは岡田茂の『事件が起きたら即、映画』術と評されるように[59]、当時の複数の記事で岡田が、黒い霧事件を扱う『実録・プロ野球・黒い霧事件』[57][60][61]、『実録・連合赤軍』[57][62]田中角栄の自伝を実録で描く『任侠総理』[61][63]、『実録大映興亡史』[57][64]、有名な『実録・共産党[65]などを企画している、と話していることである[57][61][64]


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