実体二元論(じったいにげんろん、英: Substance dualism)とは、心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方。ここで言う実体とは他の何にも依らずそれだけで独立して存在しうるものの事を言い、つまりは脳が無くとも心はある、とする考え方を表す。ただ実体二元論という一つのはっきりとした理論があるわけではなく、一般に次の二つの特徴を併せ持つような考え方が実体二元論と呼ばれる。
この世界には、肉体や物質といった物理的実体とは別に、魂や霊魂、自我や精神、また時に意識、などと呼ばれる能動性を持った心的実体がある。
そして心的な機能の一部(例えば思考や判断など)は物質とは別のこの心的実体が担っている
実体二元論は心身二元論、物心二元論、霊肉二元論、古典的二元論などとも言われる。単に二元論とだけ表現されることもある[注 1]
西洋では歴史を遡れば古代ギリシアのプラトンまで遡ることができるが、特に代表的だと見なされているのは17世紀の哲学者デカルトの二元論である。
実体二元論は歴史的・通俗的には非常にポピュラーな考えではあるが、現代の専門家たちの間でこの理論を支持するものはほとんどいない[1][2][3][4][5]。
ただし、ペンローズ、ハメロフ、エックルズ、ベック、治部、保江などによって二元論の発展形や改良型とも言えるような量子脳理論が唱えられている。
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また思想家の吉本隆明は、精神と脳という言葉を用いているからといってそれを即「二元論」と捉えて批判していること自体に自然科学や還元論が内に含んでいる方法論上の問題がある、といった内容の指摘をしている。[要出典] 紀元前4世紀の古代ギリシャの哲学者プラトンは、著作『パイドン』の中で、死はソーマ(肉体)からのプシュケー(いのち、心、霊魂)の分離であり、そして分離したプシュケーは永遠に不滅であるとした。不滅であることのひとつの理由として、プシュケーは部分を持たない、とした。つまり何かを破壊するためにはそれを部分に分けなければならないが、プシュケーには部分がないのだからそれは分けることができない、すなわち破壊不可能である、と論じた。そして不滅であることのもうひとつの理由として、物事の状態は互いに逆の状態からもたらされる、ということを挙げた。生きているとはソーマとプシュケーが一つになっていることであり、死はその反対、ソーマとプシュケーとの分離であるとした。 こうしたプラトンの説も「二元論だ」とするのが従来の定説であった。(ただし、「二元論」とする従来の定説は大きな間違いで、プラトンの説の内容は「場の理論」であると、学者による緻密な研究によって近年指摘されている。[6]) 17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という表現を掲げつつ二元論を唱えた。デカルトは、空間的広がりを持つ思考できない延長実体(いわゆる物質、ラ:res extensa)と、思考することができる空間的広がりを持たない思惟実体(いわゆる心、ラ:res cogitans)の二つの実体があるとし、これらが互いに独立して存在しうるものとした。この考えはデカルト二元論(Cartesian dualism)と呼ばれ、デカルトのこの説がしばしば実体二元論の代表的なものとして扱われている[7]。 歴史的に直近に、実体二元論を唱えた人物としては、20世紀のオーストラリアの神経生理学者ジョン・エックルズ[8]が有名である。エックルズはしばしば、「最後の二元論者」などと呼ばれている[9]。 デカルト的な二元論は、近・現代の自然科学の哲学的な基礎を作ったが、同時に自然科学が発展するにつれ、徐々に支持されなくなっていった。機械論が普及するにつれ、この世界で生起している現象はすべて力学で説明できるはず、とする考えが自然科学者らの間で広く受け入れられてゆき、デカルト的な二元論は理論的に難がある、と考えられるようになっていった。 デカルトは「松果体において、物質と精神が相互作用する」としたのである。しかし仮にこうした相互作用があるとするならば、脳において力学の説明していないことが起きている、としなければならなくなる。 この相互作用の問題は、デカルトが理論を提出した当初にすでに指摘されていたが、力学が発展し機械論的な見解が普及していくなかで、大きな問題点とされてゆくようになった。ガリレイ・ニュートン以後に発展した機械論的世界観と整合性を持たない、と考えられたからである。(その後の歴史を辿ると、機械論は、力学の自然科学内部での位置づけが低下したり、全体論や有機体論からの批判によって難点が露呈し不人気となってしまったが)そのかわり、現代では物理主義を採用して、その立場からデカルトの説の難点を指摘する人もいる。 実体二元論で問題となるのは、ひとつにはデカルトの考え方はカテゴリーミステイクではないか、という点である。またひとつには因果と関わる問題である。物質と精神を完全に別の二つの実体とすると、両者の間の関係を考える必要が出てくる[要検証 – ノート]。また「精神が物質に命令を与える」とする考え方は、1980年代に行われた自発的な運動にともなう準備電位の前後関係に関する実験結果を見ると説得力を失う。 1949年、イギリスの哲学者ギルバート・ライルは、著作"The Concept of Mind"(邦訳:『心の概念』)において、実体二元論を概念上の混乱として批判した。ライルは脳とは別に、実体としての精神を措定するデカルト的な二元論を、機械の中の幽霊のドグマ アメリカの哲学者ダニエル・デネットは、1992年の著作 "Consciousness Explained"(邦訳『解明される意識』)の中で、「因果的閉鎖性を破るような心身の相互作用はもしそうしたものがあるとすれば、エネルギー保存則をやぶることになる」と説明した。 またデネットは『仮に脳内のどこかで、今まで静止していたものが、何の物理的な力も受けずに突然動き出したり、また今まで動いていたものが、何の力も受けずに突然静止したりするなら、そこではエネルギー保存則がやぶれている。だから、非物質的な精神が物理的なものに影響を及ぼすという考えは、物理学の法則と矛盾するものであり、「考えただけでコップを宙に浮かすことが出来る」といったサイコキネシスや超能力の実在を主張するのと何も変わりない』と説明した。 実体二元論では一人の人が、または一つの脳が、分割できないひとつの精神を持つとする。しかしこうした分割不可能な一つの精神、という考えは実際の様々な病気や臨床例を見ていくと、それらと整合的に理解していくことは難しい。以下、そうした点について説明する。 実体二元論においては、思考、判断、言語機能といった高次の精神機能は、物質的な脳ではなく、非物理的な精神によってになわれるとした。これはデカルトが述べた、精神を持たない人間、の話を見てみると分かるが、デカルトは精神を持たない人間は、ごく単純な反応しか返すことが出来ず、様々な場面での適切な振る舞い(礼儀作法など)は行えないだろう、と考えていた[10]。つまり人間の持つ様々な高次機能は、非物理的な精神が一手に引き受けている、という捉え方をしていた。 しかし神経科学や医療現場で、様々な臨床例が集まり始めるにつれ、人間の高次機能に対するそうした単純な考え方は、徐々に維持するのが難しくなっていった。それは人間の持つ様々な高次機能が、選択的に破壊されることが分かってきたからである。例えば、耳は聞こえ、言葉を口にすることも出来るのに、人の話を理解することが出来なくなる事例や(ウェルニッケ失語
歴史
問題点
ライルによる指摘
デネットによる指摘
ひとつの自己に関する問題点
高次脳機能障害詳細は「高次脳機能障害」を参照
唯脳論を超える近年の諸見解
エベン・アレグザンダー
2012年10月、脳神経外科医であるエベン・アレグザンダーは「死後の世界は存在する」と発言した。かつては一元論者で死後の世界を否定していた人物であったが、脳の病に侵され入院中に臨死体験を経験して回復した。退院後、体験中の脳の状態を徹底的に調査した結果、昏睡状態にあった7日間、脳の大部分は機能を停止していたことを確認した。そしてあらゆる可能性を検討した結果、「あれは死後の世界に間違いない」と判断して、自分の体験から「脳それ自体は意識を作り出さないのでは?」との仮説を立てている[11]。