この項目では、日本の元号について説明しています。福井県福井市の町名については「宝永 (福井市)」をご覧ください。
宝永(ほうえい、(.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:寶永)は、日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1711年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。
改元
元禄17年3月13日(グレゴリオ暦1704年4月16日) 前年11月22日の元禄地震のため改元
宝永8年4月25日(グレゴリオ暦1711年6月11日) 正徳に改元
前回の元禄改元の際に霊元上皇が希望して幕府が拒絶した案だったが、今回の改元の際には朝廷の案と幕府の希望が合致しなかったために採用されたと言われている。貞享・元禄の改元の時には朝廷が出した最終案の候補2つが両方幕府から拒絶されて再提出した経緯があったために、今回は最終案の候補を7つとして幕府に提出したが全て拒絶された。このため、再提出の際には候補に挙がった22の案が出され、幕府も最終的には「宝永」を選ぶ事で事態を収拾させた[1]。また、施行時にも京都市中への布告は改元から24日後の4月7日のことになり、近衛基煕を嘆かせた(当時、元号の施行権は幕府にあり、京都の朝廷から江戸の幕府への改元の告知→江戸城における公達→江戸から京都所司代への公達の通知→京都所司代から京都市中への布告の手続きを踏むことになっており、布告前に京都市民が新元号を使うことが禁じられていた)[2]。
出典
『旧唐書』の「寶祚惟永、暉光日新」から。
皇帝の徳が光り輝き、そして世の中を一新するという意味である。 宝永4年(1707年)に南海トラフ巨大地震の一つで歴史上日本最大級と推定されている宝永地震(M8.4 - 8.6)が発生、その49日後には今日までにおける史上最後の富士山の噴火となった宝永大噴火が起きている。 ※日付はいずれも旧暦。
宝永年間の出来事
元年
4月24日 羽後・陸奥で地震、野代(現在の能代市周辺)で大被害。
2年 この年京都を中心にお蔭参りが大流行する。
10月6日 徳川吉宗が紀州藩の第5代藩主に。
12月15日 霧島連山の高千穂峰御鉢が噴火。
12月 桜島が噴火。
3年
1月11日 柳沢吉保が大老格に。
7月9日 宝字銀の通用開始。
10月16日 浅間山が噴火。
4年 「赤福」は、この年創業としている。
7月12日 善光寺本堂が再建。
10月4日 畿内・東海道・南海道を中心に推定マグニチュード8.4-9.3の大地震(宝永の大地震)・大津波。
10月13日 札遣い禁止令、銀札の発行を禁止し50日以内に正貨との引替回収を命じる。
11月23日 富士山の宝永大噴火が発生。宝永山が出現。江戸でも数センチメートルの降灰を記録。
5年
閏1月7日 「諸国高役金令」を公布、宝永大噴火による灰除け金として石高100石に付き金2両を徴集。
3月8日 京都で宝永の大火、禁裏をはじめ1万0351軒を焼失。
3月21日 歌舞伎と人形芝居の興行権を巡る江戸奉行の裁きにより弾左衛門が敗訴(勝扇子事件)。