宝永地震
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宝永地震
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本震
発生日1707年10月28日
発生時刻13時45分前後 (JST)
震央 日本 東海道南海道
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度12分0秒 東経135度54分0秒 / 北緯33.20000度 東経135.90000度 / 33.20000; 135.90000座標: 北緯33度12分0秒 東経135度54分0秒 / 北緯33.20000度 東経135.90000度 / 33.20000; 135.90000
規模   M 8.4 - 8.9, Mw 8.7-9.3
最大震度   震度7:遠江袋井三河野田、河内布施土佐室津・宿毛大島
津波太平洋沿岸、特に遠州灘、熊野灘、土佐湾。最大25.7 m : 土佐久礼
地震の種類海溝型地震
逆断層
被害
死傷者数死者4,900人 - 21,000人[1]
被害地域畿内東海道東山道北陸道南海道山陰道山陽道西海道

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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浅川観音堂、宝永津波の犠牲者を供養するために建立された観音堂徳島県海陽町浅川[2]

宝永地震(ほうえいじしん)は、江戸時代宝永4年10月4日1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖(北緯33.2度、東経135.9度 [注 1])を震源域として発生した巨大地震南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされている[3][4][5]。宝永の大地震(ほうえいのおおじしん)・宝永大地震(ほうえいおおじしん)・亥の大変(いのたいへん)とも呼ばれる。地震の49日後に起きた富士山宝永大噴火は亥の砂降り(いのすなふり)と呼ばれる[6]
江戸時代の南海トラフ巨大地震

南海トラフ沿いが震源域と考えられている巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほか、嘉永7年(1854年)に連発した安政東海地震および安政南海地震が知られている。また、宝永地震の4年前(1703年)には元号を「宝永」へと改元するに至らしめた相模トラフ巨大地震の一つである元禄地震が発生している[7][8]

慶長9年(1605年)の慶長地震もかつては宝永地震のように東海道・南海道に亘り[9]、震源域がほぼ宝永地震に匹敵する津波地震と考えられていた[10]。しかし、これを南海トラフ沿いの巨大地震とするには多くの疑問点があり、南海トラフ沿いの地震ではないとする見解も出されている[11][12]。実際、慶長地震の震源域が南海トラフ全域に亘るものならば、それは僅か100年余の短期間に超巨大地震を起こすに足るエネルギーが蓄積したということであり、将来の超巨大地震の見積もりも修正を余儀なくされる。仮に慶長地震が伊豆小笠原海溝沿いが震源域ならば、地震動が弱い点、歪み蓄積時間の問題は氷解する[13]

また、安政地震までの再来間隔147年は従来の定説では、1361年正平地震以降の南海トラフ巨大地震の平均再来間隔117年より長いと考えられてきたが、安政地震については「宝永地震の後始末地震」だった可能性も考えられ、この再来間隔147年は南海トラフ沿いの巨大地震としてはむしろ短い部類になるとの見解もある[12]。本地震について記され現在まで残された古文書は、幕末に発生した安政地震に比して量・質とも遥かに及ばず、しかも安政地震後に当時の人々が過去を振り返って記述したものも少なくなく、地震当時に記録された史料は少ない[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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