宝暦の飢饉
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宝暦の飢饉(ほうれきのききん、ほうりゃくのききん)は、江戸時代に発生した飢饉宝暦5年(1755年)から翌年にかけて、東北地方から北関東まで被害がおよんだ。宝五の飢饉、宝五の大飢饉または亥年凶作、宝暦五年大凶作とも呼ばれ、「神武以来ノ大凶年」[注釈 1]と伝えられる。民衆生活に甚大な被害があり、近世後期の東北や北関東を衰微させた[1][2]

江戸時代の「江戸三大飢饉」は一般に、享保の大飢饉天明の大飢饉天保の大飢饉とされるが、東北地方では享保の大飢饉を除き「宝暦」「天明」「天保」の飢饉を三大飢饉と称する[3]。これに元禄の飢饉をくわえて四大飢饉ともいう[4]。地域によっては天明や天保の飢饉の時よりも被害が大きいところもあり、近世最大級の飢饉の1つと目されている[5]。冷害による被害を主とし、地域によっては水害や虫害も加わって大凶作になった[6]

なお、宝暦5年には隠岐国で極端な雨不足の後の長雨および大暴風による大飢饉が、宝暦6年には四国で蝗害による飢饉が発生しているが、この項では主に東北地方による冷害を原因とした飢饉について扱う[7]
当時の気候

元禄・天明・天保の飢饉の時期は小氷期にあたったが、宝暦の飢饉の際はそうではなかった[8]。しかし、置賜地方の記録[注釈 2]では、

宝暦4年暮れから翌5年正月にかけて、雪は少ないが寒さが厳しかった。

5年3月から4月まで寒さが続き、草花の育ちも悪い状態となった。

田植え時には少々の日和はあったが、5月半ばから降り続いた雨が長雨となり、夏中やむことはなかった。

この年の夏は暑い日は少なく、袷を着て過ごした。7月末(旧暦)には吾妻山に雪が降り、8月中も雨が降り続いたため、しばしば洪水が発生し、大きな被害が出た。稲穂は一面実入りの無い青立ちの状態となった。

とある。最上地方村山地方でもほぼ同様だったが、庄内地方は4月中旬から5月中旬まで日照りが続いて旱魃の被害があった。夏は低温で冷害となったという。麦・米ともに大凶作で、飢餓や熱病の流行が民衆を苦しめた[1][9]。『豊年瑞相談』によれば、10月には雪が降り積もり、不熟な稲が雪の下に埋れてしまって、刈り取ることもできなくなり、寒中になると餓死するものが続出するようになった[10]

宝暦6年には前年の影響で凶作となった地域が多く、翌7年の前半も低温・大雨・洪水による被害が発生した[1]

建部清庵の『民間備荒録』によれば、宝暦5年は冷害の年であり、5月中旬から低温が続き、8月下旬まで雨が降り続いた。5日から7日間雨が止んでも初冬のような寒気が続き、田に入ると手足が凍えるほど冷えていて、稲の生育は遅れ、穂は出ても実は入っていなかったという[注釈 3][11]

『青森県史』に引用されている『天明卯辰簗』では宝暦5年早春から4月まではことのほか暖かかったため、農作物の育成は格別良いように見えたが、5月下旬から冬のような寒さとなり、日が照ることはなく、田畑の様子はよくなかったという[注釈 4][12]

出羽国新庄領のことが書かれた『豊年瑞相談』にも宝暦5年は寒さがひどく、雨が降り続き、6月1日にも綿入れを着るほどだったとある[注釈 5]

死者の葬礼のための野辺送りをする際、当時の慣例であった「まくら飯だんご」を持って行くと、流民たちが殺到して、大勢で奪いあいになった。物乞いの者があまりにも多いので、施し物をする者もなくなり、餓死者が出て、一般民衆は栄養不良になって疫癘が流行した[10]
岩手・宮城県内での死者数

岩手県宮城県内の寺院に残された過去帳を調査したところ、南部藩の死者数は宝暦6年は同4年の5倍強となっており、仙台藩でも同6年は同4年の約2倍の死者数となっている。月別にみても、南部藩では宝暦5年10月ごろから死者数が増えはじめ翌6年の4月から5月ごろにピークに達し、端境期をこえると急激に減少し、その年の収穫があった年末ごろにはほぼ平年値に戻った。仙台藩でも6年4月がピークで、同年3月、5月の順に死者数は多くなっている。宮城県全域でみても、死者の最も多かった宝暦6年は年の前半に死者が多く出ている[13]
飢饉の特徴

奥羽地方の餓死者は集計すると10数万人とみられる[14]

飢饉の特徴の1つは、元禄期ごろから東北地方には全国市場従属方の市場経済が成立していたことにあった。18世紀前半には上方や江戸への廻米を藩財政の基本にし、年貢以外にも農民からの米の買い上げを積極的に進めていた。しかし大開発の影響で米価は低落、東北のみならず、全国的にも財政収入は伸び悩んでいた。幕府に命じられた御手伝普請による支出もあり、財政補填のため領内の穀物をほぼ全て領外へ移出して売却するようになった。そのため、前年度が豊作でも翌年に大凶作になると、たちまち飢饉に陥るという構造になっていた。幕府の側でも、財政的な問題もあって、先の享保の飢饉の時のように奥羽諸藩への積極的な救済策を行おうとはしなかった[14]

農民たちも村に入り込んだ商人たちから様々な商品を買い、借金を重ねるようになった。消費生活が浸透した農村では、現金収入のため凶作への備えをおろそかにして、貯蔵に回すべき穀物を売却し、凶作時に飢饉に陥るようになってしまっていた[15]
各地の状況
仙台藩

仙台藩では、延享4年(1747年)の洪水や寛延年間(1748年 - 1851年)の洪水と寒冷な気候、さらに疲弊した村々で流行病になるなどの被害が続いていた。

宝暦5年には、土用になっても綿入れを着なければならない冷夏で稲は青立ちとなり、刈り入れ期の10月には北上川で洪水が発生して大きな損害を被った。『東藩史稿』によれば表高62万石のうち損毛高は54万石に達した。早霜が降り、翌6年正月からの降雪もあって地方によっては交通も不可能となって被害を大きくした[11][16]

領内で雨水を農業用水としていた地域では、一面の青立ちとなった(『仙台飢饉の巻』)。の根やタニシなどを採取して食料にした者もいたが、翌年も大雪と余寒によって草木の芽生えは悪く、そのため新たに食料を採取することも困難になった。あらゆる草木を飯や粥に入れて食したが、胃腸で消化できずさまざまな病気になって苦しんだ。春になると野山の山菜などが採取できるようになったが、冬からの雑食のために暖かくなるにつれて流行病に罹って大勢が死んだ。飢渇に耐えかねて渇命願いをする者たちが検断や肝入[注釈 6]の門前に市をなし、4月には城下の河原町地蔵堂辺に飢人が集まりだした。古川では玄米1升が100文に高騰し、米だけでなく食料全般が値上がりすると同時に銭価が下落したことで本格的な飢饉へと陥った(『小野田舎』)[11][17]

藩の飢民への救済は、仙台城下の河原町に住む岡右衛門による個人的な施行から始まった。宝暦5年11月ごろからから翌6年4月まで松原地蔵堂付近に集まった「物貰」や「菰かぶり」に対して「むすび飯」を朝暮与え、日中には「山」という字を書いた菅笠を飢民たちに被らせて城下を勧進させた。藩の施行が始まったのは同年5月からで、広瀬川の小泉河原に小屋を設けて施粥を始めたが、たちまち1000人余が「」のごとく駆け集まり、このなかには盛岡藩などから流れてきた者たちも含まれていた[18]

餓死者数については史料が少ないが、20000人から30000人ほどとされる[19]。『仙台飢饉之巻』によれば、宝暦6年では気仙、胆沢、江刺、東山などの藩蔵入地だけで死者3800人、2000頭余の馬も餓死し[注釈 7]名子水呑町人の犠牲者も多かったと伝わる[11][20]

仙台藩領にある82の寺の過去帳の研究[注釈 8]では、宝暦4年(1754年)の死者数を100とすると、宝暦6年の指数は仙台、宮城、亘理、名取で107。桃生、牡鹿、本吉では180。岩手県内にある旧仙台藩領は198におよぶ。内陸部をこの中間として計算して飢饉の死亡者は20000人程度と推定している[注釈 9][11][21]

「宝暦飢饉記録」[注釈 10]によれば、宝暦5年から6年は、凶作の程度では元禄13年から14年(1700年から1701年)より収穫がよかったという記事がある。


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