定紋
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この項目では、日本固有の紋章について説明しています。

松本清張の短編小説および、それを原作とするテレビドラマについては「家紋 (松本清張)」をご覧ください。

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出典検索?: "家紋" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年10月)
皇室の紋章である「菊花紋章」。豊臣家の家紋である桐紋(五七の桐)。
2023年令和5年)現在日本政府の紋章として使われているが、元々は皇室の紋章(替紋)で、桐をかたどったもの。徳川宗家(徳川将軍家)の紋章。「三つ葉葵」。徳川氏三つ葉葵紋が描かれたひょうたん型の蒔絵酒器。
江戸時代18世紀、メトロポリタン美術館蔵)

家紋(かもん)とは、個人家族を識別するために用いられる日本紋章である。 日本では、構造的な類似性に基づいて241種類の一般的な分類がなされており(1つの紋が複数の分類に属することもある。)、5116種類の個別の紋が存在する(ただし、この分類に含まれていない失われた紋や無名の紋が存在することもよく知られている[1][2]
概要
家紋のおこり

「源・平・藤・橘(げん ぺい とう きつ)」と呼ばれる「源氏」・「平氏」・「藤原氏」・「橘氏」といった強力な氏族が最も名を馳せていた時代、各地方に移り住んだ氏族の一部が他の同じ氏族の人間と区別を図るため土地名前などを自分の家名(屋号)とし、それが後の名字となった。

家紋は家の独自性を示す固有の目印的な紋章として生まれ、名字を表す紋章としての要素が強い。
家紋の発展

その後、武家公家が家紋を使用するようになった。
血統や元々の帰属勢力としていくつかのグループに大きく分けることができる。

それぞれが代表的な家紋とそのバリエーションで構成される。

その他、各地の豪族がそれぞれ新たに創作した家紋が現代まで伝わっているものもある。

制限について

特別な紋章や場合を除いて、家紋を幾つも所有することは自由であったこともあり、墓地や家具、船舶にまで付けられるほどまでに広まる。
しかし家紋の使用に制限はなかったと言うが、他家の家紋を無闇勝手に使用してはそれなりの軋轢や摩擦が生じる。

特に大名将軍などの、地位の高い家のものとなればなおのことであった。

そのため、他家の定紋は出来るだけ配慮して使わないこととする暗黙の了解があったとされる。

英語での表記について

英語圏で用いられる象徴(Symbol)は抽象的な図案を指し、紋章(Coat of arms)は視覚的な図案を指すが、日本の家紋は「飾り」の意味から Family crest、Crest といった英語で表現されている。これは、西洋では個人紋章(Coat of arms)の構成要素であるクレスト(Crest)を一族・家族で共有することがあり、日本の家紋と同様の機能を有するからである。日本名を音訳して mon、kamon とする場合もある。
歴史合戦場を埋め尽くす家紋入りの。 岐阜市歴史博物館蔵収蔵『関ヶ原合戦屏風』(江戸時代後期)
平安時代 - 鎌倉時代

家紋の起源は古く平安時代後期にまで遡る。奈良時代から調度や器物には装飾目的として様々な文様が描かれてきたが、平安時代になると次第に調度品に文様を描くことは視覚的な美しさだけでなく、貴族が各家固有の目印として使う特色を帯びてきた。そして平安時代末期に近づくと、西園寺実季や徳大寺実能といった公家が独自の紋を牛車の胴に付け都大路でその紋を披露して歩き回り始める。これが家紋の起こりであるという説がある。

その後、公家の間で流行し、様々な家紋が生み出されていく。例えば上記の西園寺実季は「鞘絵」を、徳大寺実能は「木瓜」を、菅原一族などは梅紋をといった華美な紋を家紋にしている。しかしながら文様の延長線上としての色彩的な意味合いが強く、鎌倉時代にかけて徐々に、その後の帰属の証明や家紋の意味合いや役割に、発展・変化していった。

武家の家紋は公家よりも遅れ、源平の対立が激化し始めた平安時代末期に生まれる。戦場において自分の働きを証明、また名を残す自己顕示のため各自が考えた固有の図象を旗幕、幔幕にあしらったことが、その始まりであったと考えられている。源氏が白旗、平氏が赤旗を戦場での敵味方の区別を付けやすくするための認識性のために掲げた。旗に家紋の原型となる紋章を描くことはなかったが、家来である武蔵七党である児玉党は後の児玉の家紋になる「軍配団扇紋」の「唐団扇」を軍旗に描いている。このことから、武家の家紋も公家と同じく平安時代後期に生まれたと考えられるが、それもわずか数えられるほどで、爆発的に普及し始めるのは鎌倉時代以後となる。鎌倉時代中期頃にはほとんどの武士は家紋を持ち、家紋の文化は武家社会に定着していたと考えられている。

本格的な合戦が増えた鎌倉時代には、武士にとって武勲を上げる機会が増えた。そのため必然的に敵味方を区別したり、自身の手柄の確認させたりするための手段が必要となり、幔幕や幟旗、馬標や刀の鞘など、ありとあらゆる物場に家紋が入れられた。

公家社会においては武士のように名を上げるために家紋を使用する必要はなかった。そのため室町時代に入る頃には、ほとんど廃れてしまう。そもそも家を識別するために紋章を使用するという発想は武家のものであり、その存在自体が厳格な家格の序列に固定化された公家には、そうした紋章をあえて使用する必然性がなかったのである。したがって公家の家紋は「武家にならって創られた伝統」だという側面が強い。
南北朝時代 - 室町時代 - 戦国時代

南北朝時代に入る頃には、「大紋」といった直垂に家紋が縫いつけられた衣服が武士の間で普及する。室町時代頃から、紋章を付けた衣服のことを礼服と呼ぶようになるが、礼服に必ず家紋をつけるという発想や考えはまだ一般化していなかった。その考えが定着し始めたのは、大紋から発展した「素襖」や「肩衣」といった衣服が出始めた室町時代中期の東山文化が栄えた頃だと言われる。同じ頃、羽織が生まれた。

戦国時代に入ると同族同士で戦い合うことも増えた。敵・味方の区別をしやすくするため、この頃から急激に家紋の種類が増え始めた。

同時期、「平紋(ひょうもん)」と呼ばれる2・3色に柄を色分けた家紋が流行した。例えば安土桃山時代朝鮮に出兵した武将・加藤清正の平紋柄の桔梗を小袖につけている肖像画が、京都の観持院に残されている。この柄は江戸時代に入っても人気は衰えず、元禄頃の華美な家紋が流行した時期などは派手好きな民衆に特に好んで使用された。
江戸時代に大きく染め抜かれた役者の定紋。 歌舞伎では登場人物の役柄に関わりなく、その役を務める役者の定紋が舞台衣装に大きく染め抜かれることが多い。
画像は寛政12年(1800年)11月。


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