定岡正二
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定岡 正二基本情報
国籍
日本
出身地鹿児島県鹿児島市
生年月日 (1956-11-29) 1956年11月29日(67歳)
身長
体重184 cm
74 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1974年 ドラフト1位
初出場1977年5月18日
最終出場1985年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


鹿児島実業高等学校

読売ジャイアンツ (1975 - 1985)

監督歴


鹿児島ホワイトウェーブ

薩摩

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定岡 正二(さだおか しょうじ、1956年11月29日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身の元プロ野球選手投手)で現在はタレント野球解説者、野球指導者。愛称は「サダ」。あるいは「サダさん」「サダ坊」。(株)エストゥー所属。「定岡三兄弟」の次男であり、兄の定岡智秋、弟の定岡徹久、甥の定岡卓摩も元プロ野球選手である。義理の妹は元女優の斉藤浩子(徹久の妻)。
経歴
高校時代

鹿児島実高在学中、2年生と3年生の夏にそれぞれ全国高等学校野球選手権大会に出場。

2年生の時は日大山形高相手に代打でわずか1打席の出場にとどまったが、3年生になるとエースとして鹿児島県勢初のベスト4進出を果たす。準々決勝では原辰徳が在籍していた東海大相模高との延長15回にわたる熱戦を勝ち抜いた。準決勝の防府商高戦では、3回に右の手首を負傷。交代を余儀なくされた上、チームはサヨナラ負けを喫するが、その悲劇性と甘いマスク、高い実力が相まって女子中高生から絶大な人気を得た[1]
巨人時代

1974年プロ野球ドラフト会議で、読売ジャイアンツから1位指名を受け入団。しかし、本人は後年、「阪神タイガースへ入団したかった」と述べている。

入団後は二軍暮らしが続き、腰痛もあって1979年オフの地獄の伊東キャンプは不参加となったが、それに奮起して長嶋茂雄監督最終年の1980年にプロ入り初勝利を含む9勝を挙げた[2]

藤田元司監督就任の最初のシーズンである1981年、4月11日の阪神タイガース戦で初回先頭打者北村照文二塁打を打たれた後、打者27人連続でアウトを奪い準完全試合となる完封を達成した。最終的にはプロ入り初の2桁勝利(11勝)を挙げ、同年の日本シリーズ制覇にまで貢献した。

1982年にはオールスターにも出場、自己最多の15勝を挙げ、同年代の江川卓西本聖とともに3本柱として活躍する。

1983年は春先から好調を維持し、開幕2か月で6連勝を含む7勝1敗とハーラートップを走っていた。しかし、牽制球の際に持病の腰痛を発症し、以降は調子を落とす。先発とリリーフの併用が続き、8月に二軍落ち。二軍で2試合連続完投勝利を挙げ、9月に一軍復帰するも調子は戻らず、6月以降は1勝も挙げることができないままシーズン終了、結局、この年は7勝7敗に終わる。

1984年に入ってもなかなか復調せず、この年の9月以降はリリーフに回る。シーズンでは自己ワーストの10敗を記録。

1985年には、槙原寛己が台頭したことを背景に、一軍定着後初めてリリーフへ専念。自己最多の47試合登板で、4勝3敗2セーブ、防御率3.87という成績を残した。一軍のシーズン最終戦であった10月24日の対阪神戦(後楽園球場)では、チームが8点差を付けられていた8回表一死一塁から登板すると、打者1人を併殺打に打ち取ってマウンドを降りた。しかし、翌25日に球団査定の岩本尭に突然呼び出され、近鉄バファローズへのトレードを通告される。

巨人は当初、前年(1984年)のセントラル・リーグ首位打者だった篠塚利夫との交換を条件に、正二塁手の大石大二郎を獲得することを近鉄に打診。近鉄側がこの打診を断ったため、定岡とベテラン捕手・有田修三の交換を軸に、3対3のトレードを改めて持ち掛けていた。しかし、このような事情をよそに、定岡はトレードの通告を拒否。本人が後に明かしたところによれば、通告された時点では「『(直近数シーズンの実績を考えれば)通告を拒否しても巨人に残留できる』と思っていた」という。これに対して、巨人では定岡が近鉄への移籍を承諾することを想定していたため、翌1986年の戦力構想へ定岡を入れていなかった。そのことが後の話し合いで判明した結果、定岡は球団幹部から「近鉄への移籍」か「巨人での引退」を迫られた末に、11月2日に「プロ野球に入ったときから巨人しかないという考えでした。頭ではトレードに従わねばならないとわかっていても、感情的に他球団のユニホームを着ることを納得できないんです」と29歳の若さで任意引退を決断[3][4][5]。巨人でも人気の高かった定岡による突然の引退表明は、野球界以外にも大きな波紋を呼んだ(詳細後述)。ただし、引退会見では、芸能界へ転じる意向がないことを明かしていた。なお、巨人と近鉄は、定岡の引退表明後も交換トレードを模索。その結果、有田と淡口憲治山岡勝による1対2の交換トレードが1985年内に成立した。
現役引退後

引退翌年の1986年2月に、アイク生原(当時はMLBロサンゼルス・ドジャースのオーナー補佐)の紹介によって、ドジャースのスプリングトレーニング(春季キャンプ)に招待選手として参加している(打撃投手として参加していると言われているが、これは本人が否定している[6])。定岡本人によれば、「ジャイアンツを辞めた後にミスター(現役時代の監督だった長嶋茂雄)がアイク(生原)さんに連絡してくれたおかげで、ドジャースの(春季)キャンプに参加できた。そのおかげで、現役生活への未練をきっぱり切れたばかりか、引退後も野球を嫌いにならずに済んだ」とのことである。キャンプ中には、当時の主力投手(フェルナンド・バレンズエラオーレル・ハーシュハイザー)と同等の待遇を受けていて、ゲーム形式の打撃練習にも登板。自分の思った以上にスライダーが通用した結果、6イニングほど抑えられたため、ラソーダ監督から「サダオカ、お前、アメリカにマイナー契約で残れ」という言葉を掛けられたという。本人もその気にはなっていたが当時世田谷に独り身でありながら一軒家をローンで購入しており、折しもバブル経済絶頂期であり家を手放すという選択肢が無かったと後に語ってる[6][7]

ドジャースのキャンプから日本への帰国を経て、1986年4月から『JNNスポーツチャンネル』(TBS)のスポーツキャスターに転身。野球解説者として同局のプロ野球中継へ出演するかたわら、2001年までは、イザワオフィス所属のタレントとして活動の場をバラエティ番組にも広げていた。日本テレビ制作の『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(『生ダラ』)では、ゲストとしてへ出演した際に「おちゃのこさいさい」を「へなちょこさいさい」と言い間違えたことから、「へなちょこサダ」という異名を取ると共に準レギュラーへ起用。この頃から一時、非スポーツ系のタレント活動が主体になっていた。1997年には『生ダラ』の企画で、石橋貴明とんねるず)、デビット伊東B21スペシャル)と共に“ANDY'S”という音楽ユニットを結成。


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