「定山渓鉄道」はこの項目へ転送されています。本項の企業がかつて行っていた鉄道事業および運行していた鉄道路線については「定山渓鉄道線」をご覧ください。
株式会社じょうてつ
JOTETSU CORPORATION
本社 じょうてつビル
種類株式会社
本社所在地 日本
〒003-0001
北海道札幌市白石区東札幌1条1丁目1番8号
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度3分3.79秒 東経141度22分45.2秒 / 北緯43.0510528度 東経141.379222度 / 43.0510528; 141.379222
株式会社じょうてつ(英: JOTETSU CORPORATION[2])は、北海道札幌市白石区東札幌に本社を置き、バス事業や不動産事業、リテール事業等を行う企業。
旧社名は定山渓鐡道株式會社(じょうざんけいてつどう)で、かつて定山渓鉄道線を運営していたが1969年11月1日に廃止されている[3]。
1957年に東京急行電鉄(現在の東急)の傘下となり、以降は北海道における東急グループの中核企業である。じょうてつ自体も北紋バス、あつまバス、宗谷バス等の株式を保有していたが、東急によるグループ再編の一環で整理が行われた。 1909年(明治42年)に札幌石材馬車鉄道が作られ、札幌駅前から石山に至る馬車鉄道が敷設された。定山渓へもこれに乗り、終点の石山で下車したあとは歩くしか方法がなかった。 やがて、札幌の発展と共に石切山の石材、御料林の木材、豊羽鉱山の硫化鉄鉱石、豊平川水系の水力発電所建設用資材の輸送、定山渓温泉への行楽客の輸送を目的として、1913年(大正2年)2月12日松田学を中心に札幌区在住の経財界人24名により、免許申請、7月16日に免許状が下付された。1915年(大正4年)12月20日資本金30万円をもって客貨輸送と鉄道ホテルの経営を目的とし定山渓鐡道株式会社が創立され、初代社長に松田学が就任した。 当初は、国鉄苗穂駅から石山付近で豊平川を渡り、定山渓に至る計画であったが、1913年(大正2年)8月の大出水により線路を敷設することができなくなり、さらに多額の建設費用が必要となるため、国鉄との接続点を白石駅に変更する願書を会社設立後間もない1915年(大正4年)12月27日に提出し、翌1916年(大正5年)4月13日に改めて認可を受けた。変更した線路は、月寒坂では地主との折衝が難航。平岸では通過地点の反対で手直しし、真駒内では、北海道庁立真駒内種畜場構内を横断することは、好ましくないと反対され、山側に迂回することになった[4]。 結局線路は、国鉄白石駅から札幌方向に進み、豊平停車場、真駒内種畜場の東側をとおり真駒内川を渡り、小隧道を過ぎて下り、石山停車場の手前で馬車鉄道と平面交差し、簾舞停車場を経て、豊平川右岸を定山渓に至る延長29.9kmとなった。 1917年(大正6年)4月6日に施行認可を受け、計画より四年経過した1917年(大正6年)4月6日より建設工事がはじめられたが、定山渓沿線は藤の沢あたりまでは開けていたが、その前途には繁り放題の樹木、根をはりつめた熊笹が無限に広がっていた。さらに、会社の財政事情によりレールや車輌類のほとんどを国鉄から中古品を払い下げてもらい、どうにか完成し1918年(大正7年)10月17日に白石から定山渓までの鉄道営業を開始する運びとなった。 当時の資金難はかなり深刻であり、開業直前の1918年(大正7年)1月30日には金子元三郎(貴族院議員)が社長に就任し、松田学は専務となった[5]。 1920年(大正9年)4月1日に真駒内停車場、1924年(大正13年)1月1日に滝の沢停車場、1926年(大正15年)8月15日に一の沢停留場が続いて開業し、1926年(大正15年)8月21日に北海道鉄道の沼の端から苗穂までの開業にともない、東札幌停車場を開業し共同で使用した。その後、1928年(昭和3年)6月7日に錦橋停車場が開業した。 1924年(大正13年)、北海道三景に定山渓が選ばれ、輸送力の強化が必要となり、全線電化の計画を具体化させていった。 1928年(昭和3年)10月27日の臨時株主総会で電化が決定され、資金の多くは、王子製紙系列の北海水力電気が出資し、役員3名が派遣された。これは、王子製紙傘下の北海道鉄道が東札幌において定山渓鉄道と接続していたため、御料林の木材が苫小牧工場まで列車の輸送機関によって搬入できることと、北海水力電気においても電気の販売ができるという利点があった。 電化工事は順調に進み、1929年(昭和4年)10月25日に東札幌から定山渓までの27.2kmの間、電車による旅客輸送がはじまり、豊平駅を現在の場所に新築し移転した。 利用客の利便性を考慮し、北海道鉄道の東札幌から苗穂の間3.1kmの電化工事を始め、1931年(昭和6年)7月25日に乗り入れ電車の直通運転が行われ、利用客にとって尚一層便利な足となった。 さらに観光ブームは続き、本州からも団体客が入るようになり道路の整備も行われ、1932年(昭和7年)5月8日札幌駅前から定山渓、さらに豊平峡の自動車運送事業を開始した。 沿線の人口増加等により、1933年(昭和8年)1月7日白糸の滝停留所、1933年(昭和8年)11月18日北茨木停留所(後の澄川駅)、1936年(昭和11年)10月20日小金湯停留所を開設した[6]。
概要
誕生