官吏
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官吏(かんり)とは、公法上の任命行為に基づいて任命され、国家機関(官公庁やなど)に勤務する者を指す。「官人胥吏」の合成語。

各国の官吏については官僚の項目も参照のこと。

ただし日本では官吏かどうかを区別せず「官」と呼ぶ慣用例も見られる(教官試験官など)。
日本の官吏

大日本帝国憲法の下では天皇の官制大権および文武官の任免大権(大日本帝国憲法10条)によって任免される者を指し、現在の国家公務員に相当する。軍務に服する武官とそれ以外の文官に分けられる。

日本国憲法の下では国家公務員を指す(日本国憲法7条5号、73条4号)。なお天皇が認証する官吏を認証官と通称する。

高級官吏については官僚の項目も参照のこと。
明治維新後の官吏制度詳細は「近代日本の官制」を参照
三職制

1868年1月3日(慶応3年12月9日)、維新政府は王政復古の大号令を発した翌日、総裁議定参与からなる「三職制」を定めた[1]。そして、参与としての人材を得るため、徴士・貢士制を定めて各から藩士を集めた[2]。特に徴士として集められた者は藩との関わりを断ち、朝廷の直臣となることが要求された[3]。ただし、これには木戸孝允のような維新に功績があった藩の出身者ほど抵抗が根強かったという。明治元年12月に貢士を廃止し[4]1869年3月15日(明治2年2月3日)に徴士・雇士の申し付け方を定めて、藩士に徴士・雇士を仰せ付ける際は一応その藩へ沙汰の上で仰せ付けることになり、府県に於いても雇士をみだりに申し付けることを禁じて一々行政官へ伺い出ることとし、また急ぎ雇いたい場合は何々御用に付き当分出仕する旨を達して置き行政官へ伺い済みの上で雇士を申し付けることとした[5]。太政類典によると、慶応4年(明治元年)4月頃は判任官以下の多くは雇士を以ってこれを任じたが徴士を以って任ずるものもあった[6]政体書における官等制の三等官以上には公卿諸侯・徴士ではないものを任ずる例は見たところなく、四等官に徴士を任ずるものもまたあった[6]。八等以下の官には徴士を任ずる例はなく六等・七等においても徴士を任ずるのはただ判県事に限るもののようで、あるいは徴士を任ずるのは奏任の五等以上に限りその他は皆雇士をもってこれを任ずる制というがなお検討を要するとした[6]。1869年8月4日(明治2年6月27日)に藩士登用の際にその藩へ連絡する例をやめ、徴士・雇士の称を廃止し、太政官で議論して選び用いるものとした[7] [8]

五箇条の御誓文に続き制定された政体書においては、官吏の公選がうたわれ、1869年(明治2年)5月に最初の選挙が実施[9]された@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ものの、その結果は藩閥勢力の均衡に配慮したものとなるなど、不十分であった[要出典]。その後も薩摩長州出身者から官吏を登用されやすい傾向があり、地縁・縁故を重視した藩閥政府が形成された。薩長閥とも呼ばれる。

他方、文官と共に官吏をなす武官についても、明治時代は薩長閥によって占められる状況が続いた。1869年(明治2年)二官六省が置かれ、兵部省の下に軍人が統括された(1872年(明治5年)、陸軍省海軍省に分割)。この制度の下では、軍人も未だ文官の一種に過ぎず、太政大臣兵部卿(後、陸軍卿海軍卿)の下に置かれる。
勅奏判任官

明治以後の官吏の分類として勅任・奏任・判任によるものは、1868年7月4日(慶応4年(明治元年)5月15日)に勅授官・奏授官・判授官[注釈 1]を区別したことが始めで、政体書における官等制の三等官以上を勅授官とし宣旨に太政官の印を押し、四等・五等の2官を奏授官とし行政官の印を押し、六等官以下を判授官とし所属官[注釈 2]の印を押すとした[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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