鉄道連絡船「宗谷丸」とは異なります。
宗谷
船の科学館に展示される宗谷
基本情報
建造所川南工業香焼島造船所
運用者 大日本帝国海軍(戦後まで)
海上保安庁
艦種巡視船
級名天領丸型2番船→宗谷型雑用運送艦→灯台補給船宗谷→巡視船宗谷[注釈 1]
愛称「奇跡の船」「不可能を可能にする船」「福音の使者」「海のサンタクロース」「燈台の白姫」「北洋の守り神」「帝国海軍最後の生き残り」他多数
母港横須賀鎮守府(特務艦)
東京港竹芝桟橋(灯台補給船)
函館港(巡視船)
東京港船の科学館(保存船)
艦歴
計画契約第1048号[2]
発注ソビエト連邦通商代表部
起工1936年12月7日
進水1938年2月16日
竣工1938年6月10日
退役1978年10月2日
その後1979年5月1日から記念船として公開
要目
基準排水量3.800t(特務艦)[3]
満載排水量4.775t(地領丸)[3]
トン数1.170t(地領丸)[3]
総トン数2.224t(地領丸)[3]
全長82.3m(地領丸)[3]
最大幅12.8m(地領丸)[3]
深さ7.0m(特務艦)[3]
吃水5.8m(特務艦)[3]
機関川南式3連式往復動蒸気機関1基、1軸(地領丸)[3]
ボイラー2缶(地領丸)
出力1,450馬力(地領丸)
1,597馬力(特務艦)[3]
速力12.1ノット(特務艦)[3]
燃料石炭819t 清水417t(灯台補給船)[4]
航続距離5.000海里(8.5ノット)(特務艦)[3]
乗員67人(灯台補給船)[3]
兵装四〇口径三年式八糎高角砲1基
九六式二十五粍機銃5挺
九三式十三粍機銃3挺
九二式七粍七機銃
宗谷(そうや)は、海上保安庁の砕氷船。巡視船としての船番号は PL107。前身の大日本帝国海軍特務艦[10]時代も含めて昭和期の多くの歴史的事件に関わり[注釈 2]、特に1956年から1962年まで南極観測船(初代)を務め日本の南極観測事業の礎を築いたことで広く知られる。
海上保安庁の船としては現存する唯一の保存船で[注釈 3][注釈 4]、現存する数少ない(見方によっては唯一の)帝国海軍艦船でもある[注釈 5]。 ソビエト連邦向けの商船(耐氷構造貨物船)として日本で建造されたが、日中戦争の激化に伴い引き渡し不可を決定。一旦栗林汽船や辰南汽船所属の地領丸となり、それを大日本帝国海軍が買い上げて宗谷の名前を受け継ぐ形で宗谷(そうや)となった[13]。太平洋戦争(大東亜戦争)では運送艦(雑用)として第四艦隊や[14]、第八艦隊に所属し[15]、輸送や測量任務に従事した[11][注釈 6]。敗戦後は復員輸送に従事したあと海上保安庁に所属し、灯台補給船、巡視船(南極観測船時代を含む)として服務した[10]。1978年の退役後は日本海事科学振興財団が管理を受託し、永久保存を目標に保存船として公開されている。稼働を目標としない静態保存であるが船籍を残しており、月に1日ほど海上保安庁特殊救難隊の訓練施設として使用されている。 「宗谷」の船名は、海軍の軍艦としては2代目(初代の宗谷は、日露戦争で鹵獲された防護巡洋艦ヴァリャーグ[16]。艦名は宗谷海峡由来)、海上保安庁の船としては初代。本艦は海軍に購入された際、特務艦命名基準により宗谷海峡にちなんで商船時代の「地領丸」から改名された。 日本で最初にヘリコプターを搭載した船でもあり、その運用実績は後継船[17]となるPLH01そうや以降のヘリコプター搭載型大型巡視船に生かされた。 1936年(昭和11年)9月18日、川南工業株式会社香焼島造船所はソビエト連邦通商代表部より、当時の基準で砕氷型貨物船3隻の発注を受けた[2]。これはソ連から北満鉄路を買収した契約の一部であった[18]。12月7日、砕氷型貨物船第107番船として川南工業株式会社香焼島造船所(長崎県)にて起工。1938年(昭和13年)2月16日、川南工業社長の長女 川南幸子の手によってソ連船ボロチャエベツ (Волочаевец) [注釈 7]として進水[19]。
概要
歴史
商船