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宗良親王/尊澄法親王
宗良親王(菊池容斎『前賢故実』)
続柄後醍醐天皇皇子
全名宗良(むねよし[注釈 1])
身位一品・法親王→親王
敬称殿下
出生応長元年(1311年)
死去元中2年/至徳2年8月10日(1385年9月14日)?
父親後醍醐天皇
母親二条為子
役職妙法院門跡
天台座主
中務卿
南朝:征夷大将軍(征東将軍説もある)
宗教
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宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう[注釈 1])は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。天台座主。南朝の征夷大将軍もしくは征東将軍。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。法名は尊澄法親王。二条派の代表的歌人で、南朝歌壇の中心であり、准勅撰和歌集『新葉和歌集』の撰者となった他、私歌集に『李花集』がある。 歌道の家であった二条家出身の母から生まれたことにより、幼い頃から和歌に親しんでいた。 生年は応長元年(1311年)[1]。かつて、石田吉貞が頓阿『草庵集』・『公卿補任』・『新葉和歌集』序などの記述を組み合わせて、正和元年(1312年)とする説を唱えていた[1]。しかし、平田俊春が教王護国寺本『天台座主記』に元徳2年(1330年)の座主補任時に数え20歳とあるのを発見して、逆算して応長元年(1311年)であることを示した[1]。 妙法院に入り正中2年(1325年)、妙法院門跡を継承。続いて元徳2年(1330年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。 父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗り、大和国吉野(奈良県)の南朝方として活躍をするようになる。延元3年/暦応元年(1338年)には、義良親王とともに北畠親房に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(陸奥国霊山(現・福島県伊達市))へ渡ろうとするが、座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族井伊行直のもとに身を寄せる。
生涯
『新葉和歌集』完成まで