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宗教における罪(しゅうきょうにおけるつみ)とは、主に宗教的な意味合いで使われる用語で、道徳的規範を破る行為や、そのような規範に背く行為を犯した状態を意味する。一般に、道徳的規約 (code of conduct) は、神聖な存在(例:アブラハムの宗教での神)によって、おきてとして定められる。
様々な宗教に含まれる一般的な罪に関する概念には以下がある。
他者、森羅万象、または、今世か来世での神からの罪に対する罰
罪とするためには、その行為が意図的であるべきかどうか
良心が罪を犯している認識をうながす罪悪感を生み出すべきだ、という考え
罪の重さをはかる体系
罪に対する(後悔ともう二度と犯さないとの決意を表現する)懺悔と過去に犯した行為への贖い(代償)
主に神格な存在などの仲介者を通しての、罪に対する容赦 (atonement) の可能性;キリスト教での救済
また、犯罪と正義は、政教分離の概念により関係しているものである。 英語でのsin(ここでの「宗教における罪」)は古英語のsynnに由来し、早くて9世紀あたりから記録に残されているとされている[1]。同じ語源は、古代ノルウェー語のsyndや、ドイツ語でのSundeなど、他ゲルマン言語にもあらわれており、ゲルマン祖語の*sun(d)j? (直訳:「真実である」)が語源として推測されている[2]。 仏教においては、「罪」を「ざい」もしくは「つみ」と読み、戒律に反する行為や道理に反して禁断を犯したために苦の報いを招く悪行のことを指す。罪の根源には、身・口・意の三業があるから「罪業」といい、その行為は悪であるから「罪悪」という。 本質的な罪悪行為である「性罪」と、本質的な悪行ではないが戒律に反する行為である「遮罪」とに大別する。 「五戒」に対する「五悪罪」、「十善戒」に対する「十悪罪」、父母を殺すなどの「五逆罪」がある。仏教をそしる「誹謗正法」は「五逆罪」より重い罪とする。 ユダヤ教では、神聖な戒律を破ることが罪とみなされている。ユダヤ教では、行為そのものが罪であると教えており、罪は状態ではないと説いている。あらゆる人間は悪行をする傾向性を持って創られたわけではないが、昔からその傾向性は持っているとされている。(創世記参照。)人間は、その傾向性を飼いならす能力を持っており、あえて悪を退け善を選択したとしている(=良心)[3]。ユダヤ教は、「罪」という言葉にユダヤ法(ハラーハー)に背くという意味を込めており、必ずしも道徳概念の乱れや逸脱を意味するということではない。ユダヤ教百科事典によると、「人は、自由な意志を授かったからには、自分のおかした罪に対する責任を負うことになる。しかしながら、生まれながらにして人は意志薄弱であり、精神の傾向性は悪に傾いている。『昔から人間の心は悪性であったという想像のために』(Gen. viii. 21; Yoma 20a; Sanh. 105a)神はそのご慈悲によって、人々に懺悔や容赦することを許している。」[4]ユダヤ教では、全ての人は人生の様々な岐路において罪をおかすことがあり、神は慈悲により正義を量っていると考えられている。 ヘブライ聖書 (Hebrew Bible (以上、ストロングの用語索引
語源
仏教における罪
五悪
殺生偸盗(ちゅうとう)邪淫妄語飲酒(おんじゅ)
十悪罪
殺生(断生命)偸盗(不与取・劫盗)邪淫(欲邪行・淫?・邪欲)妄語(虚誑語・虚妄・偽り)両舌(離間語・破語)悪口(あっく、悪語・悪罵)綺語(雑穢語・非応語・散語・無義語)貪欲(貪愛・貪取・慳貪)瞋恚(瞋、恚害)邪見(愚癡)
五逆罪
殺母(せつも)殺父(せつぷ)殺阿羅漢(せつあらかん)出仏身血(しゅつぶっしんけつ)破和合僧(はわごうそう)
ユダヤ教での罪
ペシャ/メレッド - 意図的におかされた罪。慎重に神を冒涜するためにおかされた行為。反乱・違反・不正などを意味する語に由来する。
アヴォン - 性欲や制御不能な感情によっておかされた罪。意識的におかされるが、神を冒涜するためにおかされたものではないもの。邪悪や過ち・非道・害などの倫理的な悪を意味する語に由来する。
ヘット - 意図のない罪、犯罪、もしくは過ち。失敗、逸脱、犯罪、過失などを意味する語に由来する。
ユダヤ教では、人間は不完全であり、全ての人間は何度も罪をおかしたことがあると考えられている。しかしながら、いくつかの罪は(アヴォンやヘット)は非難の対象には当たらないとされており、ほんの1、2回おかした嘆かわしい罪のみが、一般的な地獄の概念に近いものにつながっていくとされている。聖書やラビ狭義での神は、慈悲によって正義を量る創造者であるが、タルムードにみられるラビ・タムの視点によると、神の慈悲には13の特質があるとされている。
神は、人が罪をおかしうると知りながら、罪をおかす者にたいして慈悲深くある。
神は、人が罪をおかした後も、罪をおかした者にたいして慈悲深くある。
神は、人間が期待もふさわしいと思いもしない場面でさえも慈悲深くあることができる力を発揮する。
神は、思いやりが深く、罪悪感という罰を和らげる。
神は、慈悲や恩恵に値しないものに対しても恵み深くある。
神は、怒りに遠く、気が長くある。
神は、親切心に溢れている。
神は、真実の神であり、よって我らは後悔を示す罪人を許すという神の約束に身を任せることができる。
神は、正しいイスラエル民族の祖先(アブラハム、イサク、ヤコブ)がその全ての祖先に恩恵を施したことから、未来の世代への親切心を保障している。
神は、罪人が罪を悔い改めるのであれば、意図的な罪も許す。(人様に悔い改め、悔い改めと説きながら、自らを悔い改める。あるいは懺悔する聖職者と呼ばれる人など見た事がない。意図的な罪は意図的な罪を返されるべきだ)
神は、罪人が罪を悔い改めるのであれば、彼自身の落ち着いた怒りをも許す。
神は、誤っておかされた罪は許す。
神は、悔い改める者からは、その罪を拭い去る。
ユダヤ人は、自身に存在するイミタチオ・デイ (imitatio Dei) という神と同じような善を行うことができる精神に従うことができるとされているため、ラビ達はこれらの特質を考慮にいれ、ユダヤ法と現代におけるその適応の仕方を決めている。
古典的なラビの文学作品であるミドラーシュのラビ・ナタンによる賢人達(意訳。英記:Avot de Rabbi Natan、英訳:(The) Fathers According to Rabbi Nathan)では以下のことが書かれている:
「ある時、ラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイがラビ・ヨシュア (Rabbi Yehoshua) と共にエルサレムを歩いていた時、今は無きエルサレム神殿に辿り着いた。「ああ、我々に災いあれ。」ラビ・ヨシュアは嘆いた。「イスラエルの罪をあがなう為に作られたこの家が今や廃墟となって横たわっているとは!」ラバン・ヨハナンは答えた。「我々には、もう一つ、同じく大事なあがないの源がある。ゲミルット・ハサディム(愛のある親切心)の実践だ。『我は、犠牲ではなく、愛のある親切心を欲する』と記されているように。」
タルムードでは、『ラビ・ヨハナンとラビ・エレアザルは共に、神殿が存在していた頃は、祭壇はイスラエルの罪をあがなっていたが、今は、食卓が(あわれな者が客人として招かれたときに)罪をあがなう、と説明している。