宗尊親王
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宗尊親王
鎌倉幕府6代将軍
続柄後嵯峨天皇第一皇子

身位親王
出生仁治3年11月22日1242年12月15日[1]
平安京
死去文永11年7月29日1274年9月1日[2]

配偶者近衛宰子
 堀川具教の娘
子女惟康親王、?子女王、早田宮真覚、瑞子女王
父親後嵯峨天皇[1]
母親平棟子平棟基の娘)[1]
役職一品征夷大将軍[1]中務[1]
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宗尊親王(むねたかしんのう)は、鎌倉幕府6代将軍(在任:1252年 - 1266年皇族で初めての征夷大将軍である。後嵯峨天皇の第一皇子。
生涯

5代将軍の藤原頼嗣が京に送還された後の建長4年(1252年)4月に11歳で鎌倉に迎えられ、異母弟の後深草天皇より征夷大将軍の宣下を受ける[注釈 1]

(宗尊親王への将軍宣下を記した宣旨を読むには右をクリック → )   

征夷大将軍の辞令(宣旨)「吾妻鏡」
三品 宗尊親王右被左大臣宣?件親王宜爲征夷大將軍建長四年四月一日 大外記中原朝臣師兼奉

 (訓読文)三品 宗尊親王右、左大臣(鷹司兼平)の宣を被るに?(い)はく、件(くだん)の親王、宜しく征夷大将軍に為すべし建長4年4月1日 大外記中原朝臣師兼(押小路師兼)奉(うけたまは)る

親王は後嵯峨天皇の事実上の長子[注釈 2]であり、父から寵愛されてその育ての親ともいえる承明門院の下で育てられ[4]寛元2年(1244年)には既に久仁親王(後の後深草天皇)が誕生していたにもかかわらず親王宣下を受け[5]、同5年(1247年)には式乾門院の猶子とされる[6]。その翌年には式乾門院の姪である室町院とも猶子関係を結ぶ[5]。寛元7年(1249年)、式乾門院は後高倉院から継承した膨大な荘園群を姪の室町院に一期分として譲り、宗尊を未来領主に指定した。式乾門院・室町院にはその所領を継承させる子孫がおらず、2人が死去した場合にはその荘園は全て宗尊のものになる予定とされた[6]。更に後嵯峨天皇は宣陽門院に対しても親王を猶子として長講堂領を譲るように求めたが、それは拒否されている(最終的には両者の妥協として後深草天皇に譲られることになった)[5]。その一方で、母方の身分が低いために皇位継承の望みは絶望的であり、後嵯峨天皇は親王の将来を危惧していた(ただし、後深草天皇誕生以前は最も有力な皇位継承権者で、その後も万一の事態に備えて出家をさせずに置かれている[7])。また、当時の京都では後嵯峨天皇の即位を認めない順徳上皇系の人々(生母の修明門院や正妃であった東一条院、皇子である忠成王・善統親王)の動きがあり、彼らに対抗する意味でも複数の親王を必要とされていたとする説もある[8]。一方、将軍家と摂関家の両方を支配する九条道家(頼嗣の祖父・東一条院の実弟)による幕府政治への介入に危機感を抱いていた執権北条時頼も、九条家を政界から排除したいという考えを持っていた。ここにおいて天皇と時頼の思惑が一致したため、「皇族将軍」誕生の運びとなったのである。宗尊親王が鎌倉に下る際には近衛左中将藤原隆茂、式乾門院蔵人重房、左近大夫石川新兵衛源宗忠の3人の近侍が随行したとされている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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