宏池会
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この項目では、池田派以来の宏池会について説明しています。分裂中の宏池会(加藤派 - 谷垣派)および再分裂後の有隣会については「有隣会」を、分裂中の宏池会(堀内派 - 古賀派)については「新財政研究会」を、合流し現在に至る宏池会(古賀派 - 岸田派)については「宏池政策研究会」をご覧ください。
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宏池会陰十四菊
略称池田派
前尾派
大平派
鈴木派
宮澤派
加藤派[注 1]
堀内派
古賀派
岸田派
前身自由党吉田派)
後継宏池政策研究会
設立1957年6月
設立者池田勇人
種類自由民主党の派閥
本部日本自転車会館1号館
所在地東京都港区赤坂
ウェブサイトhttps://kouchikai1957.com/
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全国町村会館(千代田区永田町)。宏池会が入居する

宏池会(こうちかい)は、自由民主党の派閥。1957年6月に池田勇人を中心に結成された[1][2]政治資金パーティー収入の裏金事件を受け、2023年12月7日に会長の岸田文雄が派閥を離脱し[3]、2024年1月23日に正式に解散を決定した[4]。ただし解散手続きには至っていない。

自由党の流れをくむ保守本流の派閥であり[5][6]、自民党内では伝統的にハト派の政策集団として知られた[7][8][9]。岸田は、派閥から「真の政策集団」に変わることを目指すとしている[10]
概要

木曜研究会が前身の政策科学的機構としては、宏池政策研究会と定義される。吉田茂が率いた自由党の流れをくむ保守本流の派閥である[5][6]。宏池会から分裂した志公会(麻生派)や有隣会(谷垣グループ)もこれに含まれる。

吉田茂の直系の弟子である池田勇人によって創立されて以来[11]大平正芳鈴木善幸宮澤喜一岸田文雄と5人の内閣総理大臣自民党総裁を輩出、野党時代にも河野洋平谷垣禎一と2人の自民党総裁が出ており、自他共に名門派閥と見なされてきた。更に、宏池会に源流を持つ分派の麻生太郎や、かつて所属経験のある菅義偉も総理・総裁となっている。

元来、池田を取り巻く官僚出身の議員やスタッフを中心に形成されたという沿革もあり、今日に至るまで政策に通じた議員が多く在籍する。しかし、政策に明るいものの政争に暗いと評され、「公家集団」と揶揄されることもしばしばみられる[12][13]

当初から離合集散を繰り返してきた自民党各派閥に比べて、各会長の下で一致結束して派閥を継続してきたとされ、自民党草創期の名称を今日まで維持している唯一の派閥でもある。しかし、後述のように派内抗争とも無縁ではなく、特に1993年の野党転落を機に派の主導権争いが激化してからは分派や合流を繰り返し、先述のように現在では宏池会、志公会(麻生派)や有隣会(谷垣グループ)と3つの集団に分かれている。「大宏池会構想」も参照
政策

安全保障では日米関係を重視しながらも、伝統的にハト派の政策集団として知られた[7][8][9]第1次小泉内閣以降、タカ派が主流化する中、宏池会再結集においてはリベラル派の再結集をアピールした。
名称

「宏池会」の名は、後漢の学者・馬融の「高光の?(うてな)に休息し、以て宏池に臨む」という一文(出典は『広成頌』)から、陽明学安岡正篤が命名したものである。池田勇人の「池」の字、池田の出身地である広島の「ひろ」を「宏」に掛けているともいわれる。
事務所

創設以来、赤坂日本自転車会館1号館に事務所が置かれていたが、再開発によりビルの取り壊しが決定したため、永田町の全国町村会館に移った。
沿革
結成池田勇人

1957年6月、池田勇人後援会として「宏池会」が結成された[1][2][1]

1960年7月14日に行われた自民党総裁選で池田が当選。7月19日に内閣総理大臣に就任した。

池田は、旧自由党吉田茂派(吉田学校)を同門の佐藤栄作周山会)と分ける形で派閥を形成し、池田の下には前尾繁三郎大平正芳黒金泰美鈴木善幸宮澤喜一小坂善太郎など官僚系を中心とした人材が結集した。また、派のブレーンにはやはり大蔵官僚出身の下村治・田村敏雄などが集まり政策を立案していった。
前尾派・大平派時代大平正芳

1964年11月9日、池田は首相を退陣。

1965年8月13日、池田が病死。同日、前尾繁三郎が2代会長に就任した[2]

1971年、佐藤四選を許した前尾に飽き足りない田中六助田沢吉郎塩崎潤ら若手議員は大平正芳を担いで、前尾を会長から下ろした(大平クーデター)。同年4月16日、大平が3代会長に就任[2]

大平派においては、伊東正義斎藤邦吉佐々木義武が「大平派三羽烏」と呼ばれた。


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