宋金戦争
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モンゴル・南宋戦争」とは異なります。

戦争

1141年の金(青色)と宋(橙色)の勢力図

時1125年11月 ? 1234年2月9日(109年間)

1125?1142 靖康の変(金の華北征服)

1161?1165 采石磯の戦い(廃帝海陵王の宋侵攻)

1206?1208 韓?冑開禧の北伐

1211?1215 第一次対金戦争(モンゴルの金侵攻)

1217?1224 モンゴル・南宋の非同盟的共闘

1230?1234 第二次対金戦争(モンゴルの金侵攻)

1233?1234 モンゴル・南宋の対金同盟(蔡州攻囲戦

場所中国
結果
金の華北占領

宋の南遷


衝突した勢力

金側 傀儡国家

(張邦昌) (1127)

(劉豫) (1133?1137)
参戦国西夏 (1225?1227)

大真国 (1233)


モンゴル帝国 (1233?1234)参戦国契丹

モンゴル帝国 (1211?1233)

西夏 (1210?1219)

大真国 (1215?1222)

宋金戦争
繁体字 宋金戰爭
簡体字 宋金?争

発音記号
標準中国語
漢語?音Song J?n zhanzh?ng
中古音
中古音/suo?H k?i?m t??i?nHt?????/

宋金戦争の図

宋金戦争(そうきんせんそう)とは、漢民族の王朝の女真族の王朝のとの間の戦争である。
概要

1115年、女真族は契丹()の支配から独立し、金の建国を宣言した。金は当時遼に多額の歳幣を送る事となっていた宋と海上の盟を結び、遼に対抗した。金は938年(後晋建国)以来遼に奪われていた燕雲十六州を宋に返還する事を約束した。宋金両国は対遼戦争を共に戦う事になっていたが、金が快進撃で遼を滅ぼしたのに対し、宋は花石綱事件を切っ掛けとする方臘の乱の影響で大きく兵力を割かれ、宋の将軍童貫燕京攻略を金に依頼した。金側は燕京を攻略した後、住民や財産などの全てを燕京から持ち去って返還した。宋側はその後金に対して約束した歳幣を送らず、遼の残党と友好し、金の謀反人を受け入れるなどしたため、金は宋への攻撃を決意した。1125年、金は太原開封に進軍した。侵略開始直後、太原に駐屯していた宋側主将の童貫は金に怖気を為して部下を見捨てて逃亡したが、宋側で捕らえられて死罪となった。この金の突然の侵略により、徽宗は退位し罪己詔を発して代わって欽宗が即位した。1126年開封攻囲戦の際、欽宗は賠償金の支払いを条件に開封からの撤兵を交渉した。その後、欽宗は首都防衛よりも各県の防衛を固めた。翌年金は再び宣戦を布告し、1127年開封攻囲戦で開封を包囲した。金軍は欽宗及び趙氏(帝室)の者、宋の高官ら多くを拉致した。これが靖康の変である。僅かな宋室の者共は南へ逃れて転々とし、最終的に臨安(現在の杭州市)へと遷都した。中華はそうして、華北の金と華中・華南の宋の2国に分かれてしまった。1130年代、女真族(金)は南征を試みたが、華北では親宋派が反乱を起こし、岳飛韓世忠らの活躍によって逆に窮地に陥った。宋は一部の領土を奪還したものの、秦檜を始めとする和平派が南宋政府では高宗の支持を受けて拡大したため、両国は和議を結んだ(紹興の和議)。この和議により、南宋は淮河-大散関線を国境としてそれ以北を金に割譲した。またこれと同時に、金から逃れてきた秦檜を始めとする和平派が南宋政府を完全に掌握し、主戦派であった岳飛の死刑・韓世忠の免官が決まった。1161年、廃帝海陵王は南宋征伐を試みたが、采石磯の戦い虞允文に敗れ、金側での内乱によってこの侵攻は中断され、和議が結ばれた(隆興の和議)。この時、中国初の海軍が整備されたとされる。また1206年から1208年に掛けて、金の弱体化に目を付けた韓?冑による開禧の北伐が起こったが、宋による金征服は叶わず和議が結ばれた(嘉定の和議)。1233年、モンゴル帝国は宋と対金同盟を結び、蔡州攻囲戦で金を共同で滅ぼした。この時に自殺した哀宗の骨は臨安の宗廟に捧げられ、ここに宋は正式に宋金戦争への勝利を宣言した。しかし南宋は中原奪還を掲げて同盟に反して開封・洛陽・南京(応天府、現在の商丘市)の三京奪還を掲げて河南へ進軍(端平入洛)したが、モンゴル軍に壊滅的打撃を加えられた。以降の宋は宋金戦争の代わりにモンゴル・南宋戦争を戦う事となった。

宋金戦争は、中国の技術・文化・人口が急速に変化する時代を生み出した。この戦争には様々な火薬兵器の初期形態をもたらした。1132年徳安攻囲戦では、火砲の祖先である火槍の使用が記録されている。また火薬を詰めた火砲や爆発する鉄火砲や火箭(焼夷矢)が用いられるようになった。一方で女真族は華北征服後の植民の中で同化が進み。征服王朝である金の国制も中華王朝を模した官制を取り入れ、儒教思想に基づく正統性の確立に勤しんだ。また開戦直後に中国の文化の中心地である華北を金に征服されたことで宋の東アジアでの地位は低下したものの、南宋はすぐに経済的繁栄を取り戻し、数十年にわたる戦乱にもかかわらず、金との交易は有利に行われた。南宋は江南経済の発展に支えられ、首都臨安は商業の中心都市として発展した。
脆弱な宋金同盟「海上の盟」も参照宋金両国の対遼同盟。契丹人の狩猟。国立故宮博物院所蔵。

女真族は現在の中国東北部から北東アジアにかけての地域に居住していたツングース系の半農半猟の部族であった。女真族の大半は遼に臣従しており、当時の遼はモンゴル・中国北部・東北部・契丹・朝鮮北部・極東ロシアの一部[1]を支配する遊牧民族帝国であった。遼と宋は良好な関係にあった[2]が、1005年の衝突による?淵の盟以来、宋は毎年絹20万本と銀10万両を歳幣として支払っていた[3]。一方で女真族に対する遼の支配では、初夜権が契丹側にあるなどとされたため、女真族側では支配に大きな恨みが残った[4]。また宋の公主たちも契丹に送られたが、貞節を奪われて自殺したり、貞節を奪われることに抵抗して殺されたりした[5]。1114年には、女真族を統一した完顔阿骨打が遼に対して反旗を翻した[6]。1115年には金の皇帝を名乗った[7]。遼の亡命者から女真族の反乱成功を聞き、宋側の徽宗や主将の童貫は遼の弱体化に目を付け[8]、燕雲十六州奪還を目論んだ[9]女真族の長、1115年よりの皇帝 完顔阿骨打

宋金両国の間の陸地は遼の支配領域であったため、外交上の接触は渤海を経由する他なく[10]、契丹からの馬の輸入という名目で移動し、同盟交渉を開始した。宋の使者は1118年に金の宮廷に辿り着いた。翌年には金の使者が開封を訪れ、盟約が結ばれた[9]。当初両国は遼の領土の分割を約束しており、1120年の時点での合意では燕雲十六州の割譲を条件に遼へ払っていた歳幣の金への支払いを約束していた[11]。しかし1120年末、金は遼の殆どを制圧したのに対し、宋は十六州の一部しか占領できず[11]、金は十六州の西端にある西京大同府(現在の大同市)を占拠した。宋金両軍は金が遼の中京大定府を始めとする中央部を、宋が南京析津府(現在の北京市)を占領すると合意した。遼への共同戦争は当初1121年に開戦予定であったが翌年に変更され、その年の2月23日に金は中都を占領した[12]。宋は西夏との戦争に加え方臘の乱の影響で参戦が大いに遅れ[12]、1122年5月になってようやく童貫ら宋軍が燕京を攻撃したものの、逆に撃退されてしまった。


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