宋美齢
[Wikipedia|▼Menu]

宋美齢
1943年
プロフィール
出生:1898年3月4日[1]
光緒23年2月12日)
死去:2003年10月23日
アメリカニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン
出身地: 江蘇省松江府上海県
職業: 中華民国中国国民党中央委員会委員
中国国民党航空委員会秘書長
輔仁大学理事長
各種表記
繁体字:宋美齡
簡体字:宋美?
?音:Song M?iling
ラテン字:Sung Mei-ling
和名表記:そう びれい
発音転記:ソン・メイリン
英語名:Madame Chiang Kai-shek
(Soong May-ling)
テンプレートを表示
エレノア・ルーズベルトと(1943年2月 ワシントンにて)

宋 美齢(そう びれい、ソン・メイリン、1898年新暦3月4日(1898年旧暦2月12日)(ほかに中国大陸が長く採っていた1897年、死ぬまで国民党が採っていた「公式の見解」である1901年など諸説あり) - 2003年10月23日夜中)は、中華民国の指導者?介石の妻、輔仁大学理事長(1967年-1992年)、中国国民党中央委員会委員、中国国民党航空委員会秘書長。「フライング・タイガース」の設立で「中華民国空軍の母」を自他ともに認めるところとなった。

台湾の民主化以前はよく?介石の名字を込めて「?宋美齢」と呼ばれ、欧米では?夫人(Madame Chiang)と呼ばれた[2]

信仰はキリスト教南メソジスト派で最晩年まで篤く帰依した。すべての人に要求されても回想録を書かず「一切天にゆだねるのみ」の態度で臨んだというが、たった一冊「西安事変回憶録」(?中正・宋美齢『西安半月記・西安事変回憶録』1937年)を残している。
略歴

1898年3月4日客家宋嘉?の三女(3男3女の4番目)として清国の江蘇省、松江府、上海県に生まれる(生年には1897年以下諸説あり[1]。弟宋子良の墓碑がペンシルベニア州に残り、1899年生まれとあるので宋美齢のほうは1898年の信憑性が高い。『蒋介石日記』が披露する宋美齢の誕生日祝いで、唯一旧暦と新暦が被って合理的なのも1898の年なればこそである。この年は戊戌変法の維新が敢行された年)。

1908年:9月3日、9歳半にして日本経由でアメリカに留学(乗船当時の旅券が現存)。次姉慶齢と同伴して米国に滞在。

1917年:アメリカのウェルズリー大学卒業。

1927年:12月1日、?介石と結婚。蜜月を莫干山で過ごす。

1930年:国民党中央委員会委員就任。

1937年:国民党航空委員会秘書長就任。

1943年カイロ会談に同席。?介石の通訳を滞りなく務める。

1943年12月25日:青天白日勲章受章[3]

1949年共産党との内戦に敗れて台湾に撤退した?介石と同道せず、(1948年11月28日出発)アメリカの新大統領の説得に失敗したあと、(1950年1月13日)台北に移っている。

1950年:中華婦女反共抗ソ聯合会会長就任。

1975年:不審極まりない陽明山交通事故での心臓損傷が祟り、4月5日に?介石が死去(宋美齢も負傷)。夫の死去後、継子蒋経国に国民党党務の裁断を譲りアメリカに移住。

1994年:可愛がった孔二小姐(孔令俊)の死をうけ生涯で最後の帰国を行う。

1995年:第二次世界大戦終戦50年記念。当時まだ現世にある戦勝国の首脳夫人として、アメリカ国会において両党の表敬を受ける。

2003年:10月23日、ニューヨーク郊外の孔大小姐(孔令儀)所有のマンションで死去(105歳)。自身は住宅を持たなかった。死去の際にニューヨーク・タイムズは享年ほかの考証について大きな誤りを犯している。

宋美齢が中国語を話すときは上海弁、英語を話すときはアメリカ南部のなまり。演説の音声が残る。
生涯
上流階級出身クラスメイトとともに(1913年)宋嘉?ら宋一族とともに(1917年)?介石との結婚記念写真

1898年に清国上海県で誕生した。孫文の支援者である父の宋嘉?(「チャーリー宋」とも呼ばれていた)と、母の倪桂珍(明の文定公こと徐光啓の九代の末裔徐氏を母とする)の間に誕生する。父はメソジスト教会宣教師であったが、後に布教活動を止めて商売の道に進み浙江財閥の創始者として大富豪となった。

その後孔祥熙の妻となる宋靄齢、父が支援し続けた孫文の妻となる宋慶齢の2人の姉と共に「宋氏(家)三姉妹」として、中華民国内をはじめとする中華圏だけでなく、世界的にも永く知られることとなる。また、中華民国の政治家・実業家であった宋子文は兄に当たる。
アメリカ留学

9歳のときに姉・宋慶齢と共にアメリカ留学し、中学校高等学校時代を留学先のジョージア州メイコン郊外の高級住宅街で過ごした。この時に身につけた流暢な英語が、後の政治活動に大きな影響を与えることとなる。なお、あまり勉学に熱心なタイプではなく、学内行事では学生を代表して旗手を務めたり、チアリーダーとしても活躍した。

ジョージア州の高校を卒業した後に、メイコンの女子大学・ウェスレイアン大学に一年間在学してからマサチューセッツ州にある名門女子大学であるウェルズリー大学に入学し、1917年に同校を首席で卒業した。

なお、この頃よりアメリカ系フリーメイソンリーと関係の深い「イースタン・スター」フラタニティの会員であったといわれ、中華民国に帰国した後は、布教活動に熱心であった父の意を受けて同国内においてキリスト教の布教活動を行う。
?介石との結婚

その後1920年に、後に中国国民党党首で中華民国の指導者となった?介石と上海市内の孫文の旧居で出会い、約7年の交際を経て1927年9月にプロポーズし、11月には日本に滞在していた宋美齢の母親に結婚の承諾を経て12月1日に結婚した。

孫文を継ぎ、中華民国の若き指導者となった?介石と、中華民国の名家の出身で、アメリカへ留学し大学を含む高等教育を受け洗練された立ち振る舞いと流暢な英語で欧米でもよく知られた宋美齢の結婚は、中華民国内のみならずアメリカや日本、イギリスなど世界各国で大きく報じられた。2人の結婚のニュースはニューヨーク・タイムズの1面を飾ったほどであったが、一部には「政略結婚」と揶揄する向きもあった。しかし実際は普通の恋愛結婚であった。

12月1日に行われた結婚式は、宋家の客間においてキリスト教形式で行われたが、?介石が離婚経験者であることから牧師は立てず、中華キリスト教青年会全国協会総幹事がその代理役を務め、蔡元培が立会人を務めた。なお、?介石は亡命先の日本で結婚式を挙げた孫文に倣って、結婚式を日本で挙げたいと考えていたことが明らかになっている。しかしながらこの意向は、日中関係の悪化を懸念していた母親の反対で実現しなかった[4]

披露宴は、上海の共同租界にあり、上海でも有数の規模を持つ高級ホテルであった大華飯店(マジェスティック・ホテル)内の最大の宴会場で行われ、宴会場には孫文の遺影と中華民国の国旗、党旗が掲げられた。参列者は日本ドイツ、アメリカやベルギーをはじめとする各国の総領事や中華民国の政財界の有力者など1300人を超え、その後2人は浙江省莫干山への新婚旅行に向かった。

なお?介石は、宋美齢との結婚を両親に承諾させるために、最初の妻や複数いた愛人と別れ、宋美齢とその両親と同じキリスト教に改宗することを宋美齢に約束しなくてはならなかった。?介石は実際に結婚後の1929年に上海のメソジスト教会で洗礼を受け、キリスト教徒となった。
?介石への影響西安事件の際の?介石と中国国民党上層部


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:70 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef