宋子文
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宋子文

プロフィール
出生:1894年12月4日
光緒20年11月7日)
死去:1971年4月25日
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ
出身地: 江蘇省松江府上海県
職業:政治家・実業家
各種表記
繁体字:宋子文
簡体字:宋子文
?音:Song Z?wen
和名表記:そう しぶん
発音転記:ソン ズーウェン
ラテン字:Sung Tzu-wen
英語名:Tse-ven Soong (T. V. Soong)
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宋 子文(そう しぶん、1894年12月4日 - 1971年4月25日)は中華民国の政治家、実業家。元行政院副院長。

宋家三姉妹として知られる宋慶齢宋靄齢宋美齢は、実の姉妹である(三姉妹はそれぞれ孫文、孔祥煕?介石と結婚した)。目次

1 出自

2 孫文の国民政府へ

3 南京国民政府時代

4 国共内戦期の失権と晩年

5 宋子文が描かれている作品

6 参考文献

7 脚注

出自

父親の宋嘉樹海南島出身で、聖書の出版などを通じて富を得た実業家であった。両親の考えから宋子文は上海聖ヨハネ大学に学んだ。その後1912年に渡米し、ハーバード大学に入学して経済学を専攻し、1915年に経済学修士。同年にコロンビア大学に入学し、経済学博士を取得した。コロンビア大学時代にはニューヨークにて銀行員として勤務していた[1]
孫文の国民政府へ

1917年に帰国した宋子文は、漢冶萍公司秘書や華義銀行総経理を務めた[2]。もともと父親の宋嘉樹孫文の支持者であった上、孫文と結婚していた姉の宋慶齢の推薦[3]により、1923年に孫文により広東に招かれた。広東の国民政府では両広塩務稽核所経理や広州中央銀行行長として、財政改良を担当した[4]。孫文の死後は国民政府財政部長に就任し、また広東省財政庁長を兼任して政府の財政統一を進めた。この間、国民政府の収入は1924年の約798万元から1927年には約1億876万元へと急増している[5]国民党の北伐成功後は、国民政府委員や財政部長、中央銀行総裁といった職を歴任する南京国民政府の重鎮となる。
南京国民政府時代

宋子文は南京国民政府では財政、経済開発方面で活躍した。財政部長としては1930年1933年関税協定改定を進めた。当時の中国関税自主権がなく、中国は輸入品目に対し低い関税率しかかけられなかったが、列強との改定交渉の結果、一部では関税率上昇を得た[6]。また塩税の統一(『宋子文伝』30-33)や1931年釐金の廃止に力を振るい、国民政府の財政強化を図った。また上海に中央銀行(広州時代の中央銀行とは異なる)を設立して、自ら総裁となった。幣制統一政策としての廃両改元は中途で宋が財政部長を辞したため、後任の孔祥煕に引き継がれた。


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