宋堯讃
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宋堯讃
参謀総長在任時
渾名Tiger Song
石頭将軍
生誕1918年2月13日
日本統治下朝鮮忠清南道青陽郡
死没 (1980-10-18) 1980年10月18日(62歳没)
アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
所属組織

大日本帝国陸軍 大韓民国陸軍
最終階級曹長(日本陸軍)
中将(韓国陸軍)
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宋堯讃
各種表記
ハングル:???
漢字:宋堯讚
発音:ソン・ヨチャン
日本語読み:そう・ぎょうさん
ローマ字:Song Yo-chan
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宋 堯讃(ソン・ヨチャン、???、1918年2月13日 - 1980年10月18日)は大韓民国軍人政治家

済州島四・三事件では強硬鎮圧作戦で住民の犠牲に大きな役割を果たした人物の1人である[1]朝鮮戦争では首都師団を指揮し、韓国軍の猛将として知られた[2]。休戦後は参謀総長を務めた。4月革命の時、戒厳司令官であったが学生に対して好意的中立を保ったため李承晩政権崩壊の決め手となった。
目次

1 人物

2 勲章

3 出典

4 参考文献

人物

1918年2月13日、忠清南道青陽で生まれる。大田中学校を卒業。強制労働に引かれるより兵士になった方がいいとして日本軍に入隊した(志願兵2期)[3]。最終階級は曹長。

1946年4月25日付で軍事英語学校を卒業、任少尉(軍番10096番)[4]。第5連隊の創設に参加し、同連隊A中隊(中隊長:白善Y中尉)小隊長[5]。中隊長を歴任。同年9月、朴炳権中尉らと共に江陵の第8連隊に派遣され、同連隊の編成を援助した[6]

1947年3月、第8連隊第3大隊長。精強な大隊の建設をモットーに、3か月の訓練期を定め、連日連夜にわたって猛訓練を続けた[7]。将校の中には過労で倒れる者もいた[7]。さらに訓練期間中は外出を禁止し、家族との面会も許さなかった[7]。将兵に不満が蓄積し、大隊長を集団暴行する事態に発展した[8]

1948年6月、第11連隊副連隊長。1948年7月、第9連隊長(少佐)となり済州島のゲリラ討伐に従事。1948年10月17日、次のような布告文を出した[9]。本道の治安を破壊し良民の安住を脅かし国権の侵犯を企図する一部不純分子に対し、軍は政府の最高制令を奉持し、これらの売国的行動に断固鉄槌を下し、本道の平和を維持し民族の栄華と安全の大業を遂行する任務を持ち、軍は激烈者を徹底粛清しようとするので、道民の積極的で犠牲的な協調を要望するものである。軍は漢拏山一帯に潜伏し千人共怒すべき蛮行を強行す売国激烈分子を掃討するために、10月20日以後、軍行動終了期間以前も海岸線から5km以外の地点、および山間地帯の無許可通行禁止を布告する。万一、この布告に違反する者に対しては、その理由いかんに関わらず暴徒輩と認定し銃殺に処するであろう。ただし、特殊な用務で山岳地帯通行を必要とする者は、その請願により軍発行特別通行証を交付しその安全を保障する。 ? 布告文[10]

この布告文にある5km以外の地点は山岳地帯のみに限定されたものではなく、海辺を除外した中山間の村全てが該当し、中山間の居住を禁止すると同じ事であった[11]

1948年11月中旬から強硬鎮圧作戦が展開された[12]。11月以前は主に若い男性が犠牲になったのに対して、強行作戦中は老若男女問わず射殺した[12][13]。そのため犠牲者の大部分は宋の在任中に出来たものだった[13]。4・3委員会(朝鮮語版)に申告された犠牲者統計によれば、犠牲となった15歳以下の子供で、宋の在任中に発生した犠牲者は全体の76.5パーセント、61歳以上は全体の76.6パーセントであった[13]。さらにゲリラの根拠地を無くすために中山間部の村は焼かれて焦土化した[13][14]

1949年2月、第9連隊はソウルに移動し首都旅団(旅団長:李俊植大佐)に編入。

1949年5月、東海岸の第10連隊長。この時、38度線紛争が多発し第9連隊の正面でも襄陽の遊撃隊訓練所を卒業したゲリラが越境して警察を襲うことが多くなり、耐えかねた宋連隊長は処罰を覚悟の上で訓練所の粉砕を決意し、上官に具申せず極秘裏に第1大隊に攻撃を命令した。この北侵事件で宋は解任された。同年9月、第15連隊長。

1950年4月、憲兵司令官。朝鮮戦争勃発時、ソウル陥落直前に韓国銀行から金塊をトラックに積んで釜山まで運搬し国家財産を生かすのに貢献した[15]。ソウル陥落後、憲兵を陣頭指揮して落伍兵を収容。光州憲兵隊長に刑務所の受刑者や保導連盟関係者を処刑するように命じた[10]。この指示によって湖南地域の刑務所に収監されていた四・三事件関係者の射殺も行われたと推測されている[10]。光州・全州・木浦刑務所に再収監中の囚人及び保導連盟関係者その他の被検者は、全国の関係機関長、警察局長、刑務所長、検事長との話し合いで即決処分にし、窃盗その他の[不明]は仮出所などの適切な方法を取り、各警察に留置中の被検者も前記に基づき処置せよ ? 命令書[10]

1950年8月、大邱防衛司令官。

1950年9月1日、首都師団長慶州で北朝鮮軍の攻勢を阻止した(慶州の戦い)。9月21日、准将[16]。その後の北進作戦に参加し、11月にはソ連、満州国境付近にまで進出するが、中国人民志願軍の介入で撤退することになった[17]。12月、興南から墨湖港に上陸し、翌年1月に江陵を占領[17]。その後は主に東海岸の戦闘を指揮した[17]

1951年5月、中国軍の5月攻勢では軍団長の命令により、大関嶺を確保し、中国軍の江陵進出を遮断した[17]。1951年11月、首都師団は白野戦戦闘司令部に編入され、智異山の南部軍討伐作戦に参加[17]。1952年、討伐が完了すると、再編された第2軍団に配属されて春川北方に移動し、首都高地の戦闘を指揮[17]

ゲリラ討伐の経歴を高く評価され、1952年7月、少将昇進と同時に西南地区戦闘司令部(同年8月、南部地区警備司令部に改称)司令官に就任[17]。同年10月、再び首都師団長となり、指形稜線の戦闘を勝利に導いた[17]

アメリカ陸軍指揮幕僚大学留学待機中の1953年7月に第8師団長に任命。金城の戦いで指形稜線と690高地を奪還した。


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