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宋哲元
プロフィール
出生:1885年10月30日
(清光緒11年9月23日)
死去:1940年(民国29年)4月5日
中華民国四川省綿陽県
出身地: 清山東省武定府楽陵県
職業:軍人
各種表記
繁体字:宋哲元
簡体字:宋哲元
?音:Song Zheyuan
ラテン字:Sung Che-yuan
和名表記:そう てつげん
発音転記:ソン・ジョーユエン
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宋 哲元(そう てつげん)は中華民国の軍人。最初は北京政府、国民軍、後に国民革命軍(国民政府)の軍人となる。最終階級は陸軍上将。馮玉祥配下の「五虎将」(他は張之江・鹿鍾麟・鄭金声・劉郁芬)の1人と目された。字は明軒。 1908年(光緒34年)、武衛右軍随営武備学堂に入学する。卒業後は馮玉祥率いる第2営で哨長に任命された。1913年(民国2年)、連長となる。以後、馮玉祥率いる第16混成旅に所属して中国各地を転任・転戦し、第2団少校団附に昇進した。 1917年(民国6年)、張勲復辟では、張勲の弁子軍を破る上で功績をあげた。1921年(民国10年)には元陝西督軍陳樹藩を、翌民国11年(1922年)には河南督軍趙?を破る上で、やはり軍功をあげた。これにより、宋哲元は第25混成旅旅長にまで昇進している。1924年(民国13年)10月の北京政変(首都革命)を経て、馮玉祥が自軍を国民軍に改組する。この際に、宋哲元は国民軍第11師師長に任命された。翌年には熱河都統に就任している。 1926年(民国15年)1月、馮玉祥が下野に追い込まれる(3月にソ連訪問)。そのため、張之江・鹿鍾麟ら国民軍の将軍たちは、指導者を欠いたまま、北方各派の包囲を相手に戦わなければならなくなった。この時、宋哲元も西路総司令などをつとめ、張之江や鹿鍾麟を補佐し、前線で戦った。4月、国民軍は北京を放棄して南口に拠り、さらに北方各派を相手に懸命に抗戦した。8月、ついに南口を放棄して綏遠方面へ撤退する。ただ、張之江・鹿鍾麟・宋哲元らの善戦奮闘のおかげで国民軍は壊滅することなくその形を保持できた。また、中国国民党の北伐にも有効な援護射撃となったともいえる。 同年9月、馮玉祥は自軍に復帰する。五原誓師 北伐後、馮玉祥と?介石の対立が激化し、ついに内戦に発展する。宋哲元も馮玉祥の元で反?戦争を戦った。しかし1930年(民国19年)に反?連合は、最終的に敗北する。宋哲元は張学良を頼り、第29軍に改編されて山西省陽泉に駐屯した。同年11月に宋哲元は正式に第29軍軍長に任命されている。 1932年(民国21年)7月、宋哲元は察哈爾省政府主席を兼任した。1933年(民国22年)、張学良の命により北平付近に駐屯して日本軍に備える。2月18日には、張学良が発した抗日の電文に名を列ねた。3月、日本軍に脆くも大敗した万福麟と交代して、宋哲元率いる第29軍が喜峰口などで日本軍を相手に抗戦し、善戦する(長城抗戦)。最終的には防衛線を破られて宋哲元は通州へ撤退したが、この時の戦いぶりは中国国内世論から大きな賞賛を受けた。 しかしまもなく、馮玉祥が抗日同盟会を組織して華北で活動を開始すると、宋哲元は馮玉祥への対処をめぐって苦慮した。このため同年中に?介石は、塘沽協定の障害となる馮玉祥に対して有効な処置をとれない宋哲元を見限り、宋哲元を察哈爾省政府主席から罷免し、?炳勲を後任にしようとした。
事跡
国民軍での功績
長城抗戦