宋会要輯稿
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。宋会要?稿

『宋会要輯稿』(そうかいようしゅうこう)は、中国の宋代の制度書の輯本徐松が『永楽大典』中の宋代の官が編纂した会要の逸文を集めた。全800万字、500巻。

『宋会要(中国語版)』の原本は明代に逸失したが、大部分は『永楽大典』に残っていた。清の嘉慶年間、学者の徐松の命により『永楽大典』からその逸文を蒐集して『宋会要輯稿』が出来上がった。全部で500巻近くあり、「帝系」・「后妃」・「楽」・「礼」・「輿服」・「儀制」・「瑞異」・「運暦」・「崇儒」・「職官」・「選挙」・「食貨」・「刑法」・「兵」・「方域」・「蕃夷」・「道釈」の17分野に分けられた。同書の中には多くの詔令・法令・奏議といった宋代の法制の内容が残されており、十中八九は『宋史』の志にないものであるため、宋代の法制を研究する上で重要な資料である。
編纂過程中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。影印宋會要輯稿?起

宋代に作られた会要は以下の12書があり、あわせて約3000巻ある。

宋代の会要書名巻数進呈年期間備考
慶暦『国朝会要』150巻慶暦4年(1044年太祖建隆元年(960年) - 仁宗慶暦3年(1043年
元豊増修『五朝会要』300巻元豊4年(1081年)太祖建隆元年 - 神宗熙寧10年(1077年
政和重修『国朝会要』110巻政和8年(1118年)太祖 - 徽宗政和年間(1111年-1118年)「帝系」・「后妃」・「吉礼」のみ
乾道『続国朝会要』300巻乾道6年(1170年治平元年の神宗即位 - 欽宗靖康2年(1127年
『国朝中興会要』200巻乾道9年(1173年高宗建炎元年(1127年) - 紹興32年(1162年)の高宗退位
『孝宗会要』368巻淳熙6年(1179年)・淳熙13年(1186年)・紹熙元年(1190年)紹興32年孝宗即位 - 淳熙16年(1189年)孝宗退位
嘉泰重修『孝宗会要』200巻嘉泰元年紹興32年 - 淳熙16年先の『孝宗会要』に手を加えて成った。
『光宗会要』100巻慶元6年(1200年)淳熙16年2月の光宗即位 - 紹熙5年(1194年)の光宗退位
『寧宗会要』325巻嘉泰3年(1203年)・嘉定6年(1213年)・嘉定14年(1221年)紹熙5年の寧宗即位 - 嘉定13年(1220年
淳祐重修『寧宗会要』150巻淳祐2年(1242年)先の『寧宗会要』に手を加えて成った。
『経進総類国朝会要』588巻嘉定3年(1210年)太祖建隆元年 - 孝宗乾道9年(1173年)張従祖編
端平3年(1236年)淳熙元年(1174年) - 寧宗嘉定17年(1224年)張従祖版の続き。李心伝編。歴代の会要に依って編纂された。『永楽大典』に見える『宋会要』はこれに由来する。
『理宗会要』不詳度宗

以上の会要は『経進総類国朝会要』の刊本があるほかは刊本がなく、僅かな抄本のみが伝世した。が宋を滅ぼした後、その書は元の大都に運ばれた。明の『宋会要』にはすでに欠落が生じていた。

明の永楽帝が『永楽大典』を編纂させた際、『宋会要』は韻によって分類され、『国朝会要』・『続会要』・『乾道会要』・『寧宗会要』・『政和会要』の各巻の中に組み入れられたが、当時すでに散逸してた部分も多くあった。

清の嘉慶年間に徐松が『全唐文』を編纂した際、宮中所蔵の『永楽大典』を読み、『宋会要』の原稿を見つけるたびに、書記に命じて書き写させ、整理したところ、500?600巻ほどとなった[1]道光28年(1848年)に徐松が死去し、同治元年(1862年)には、その書は流出していた[2]

『宋会要』の稿本は巡り巡って北京琉璃厰の書店に辿り着き、繆?孫に購入された。繆?孫は稿本を、両広総督張之洞が広州で創設した広雅書局に引き渡し、屠寄が校勘を担当した。辛亥革命以後、稿本は劉楽の嘉業堂の所有となった。併せて劉富曽・費有容らを招聘し整理を進めた。劉富曽・費有容の2人は徐松の原稿に基づき、初編291巻・続編75巻の整理を進めた。劉富曽はさらに様々な書を参照して新たな資料を加えたところ、460巻となった。

1933年国立北平図書館は嘉業堂から劉富曽が整理した稿本を借り、徐松の原稿と対照したところ、劉富曽が「『宋志』・『通考』・『玉海』の引用にあたり、旧文を改めて新たな内容を加えており」、かつ「分類の辻褄が合わず、他書からの引用が入り交じり、典拠を記していない。『蘭台漆書』の剽窃が疑われる箇所さえある。原稿と読み比べて使えるだけで、基準とすることはできない」ことに気づいた[3]。最終的に徐松の原稿を影印することに決め、陳垣傅増湘といった名家を責任者として招聘した。当時は資金に限りがあったが、後にアメリカの在中ハーバード燕京研究所から印刷費2500ドルの援助があり、ようやく出版に至った。現在出回っている版本は1936年10月に出版された影印本である。
版本

原稿本(徐松) - 全500巻。

整理本(劉富曽・費有容) - 初編291巻、続編75巻の計366巻。四川大学古籍整理研究所はこの版本に拠って点校本を出版した。

清本(劉富曽) - 全460巻。

脚注^ 繆?孫『芸風堂文集続集』巻四『永楽大典考』「而修全唐文時、大興徐星伯先生松、曽抄出宋会要五百巻、中興礼書一百五十巻、元修河南志三巻、秘書省続到闕書二巻。


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