安龍福
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鬱陵島・現在の竹島・隠岐(島後)の位置関係。(付属の岩礁を含めない島の沿岸からの最短距離)

安 龍福
各種表記
ハングル:???
漢字:安 龍福
発音:アン・ヨンボク
日本語読み:あん りゅうふく
ローマ字:An Yong-bok
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安 龍福(英語: An Yong-bok; あん りゅうふく、1657年? - 没年不詳)は、朝鮮慶尚道東莱県釜山に住んでいた漁夫。水軍経験があるとされる。賎民だったとも。彼の発言はいまも竹島問題に影響を及ぼしている。
目次

1 概要

2 安龍福の素顔

3 安龍福の行動

3.1 竹島(鬱陵島)での村川家との遭遇

3.1.1 大谷家文書の原文(抄)

3.1.2 現代文


3.2 竹島(鬱陵島)での大谷家による連行

3.2.1 大谷家文書の原文(抄)

3.2.2 現代文


3.3 朝鮮送還

3.4 日本の伯耆国へ訴願

3.4.1 村上家文書の原文(安龍福について)

3.4.2 現代文


3.5 備辺司での取り調べ

3.5.1 「粛宗実録」の原文

3.5.2 翻訳

3.5.3 安龍福の証言検証


3.6 安龍福に関する朝鮮政府の公式回答


4 安龍福の于山島

5 安龍福の発言の影響

6 関連項目

7 脚注

8 外部リンク

概要

1693年元禄6年)、不法に鬱陵島へ渡り漁労していた時、この島を開発していた日本人に遭遇し日本へ連行される。安龍福はその後朝鮮へ送還されるが、当時の彼の証言が発端となり鬱陵島(当時日本では鬱陵島を竹島と呼んでいた)の領有をめぐる日朝間の外交問題に発展した(竹島一件)。三年後に再び日本へ渡り、鬱陵島と于山島は朝鮮の領土だと訴える。しかし、帰国時朝鮮政府に捕らえられ、日本への不法渡航や直訴を起こしたとして流罪となる。当時日本人の呼ぶ松島(現在の竹島)を于山島だと主張した最初の人物であるが、実際に安龍福がどこの島を于山島と主張したかは不明である。

現在の韓国では竹島(独島)の領有を日本に認めさせた英雄とされており、当時民間外交を行った漁夫として中高教科書にも取り上げられている。安龍福が漁労に出ていた鬱陵島には「 ⇒安龍福将軍忠魂碑」が、また居住していた釜山には「安龍福将軍像」が立っているが将軍ではない。
安龍福の素顔

1828年に完成した鳥取藩士江石梁(岡嶋正義)編述の『竹島考 下』には、安龍福の身分を示す腰牌(認識票)の内容を書き取ったものがある。腰牌は軍兵が所持するものであり、表面には「東莱 私奴(賤民) 用朴 年三十三 長四尺一寸 面鉄髭暫生疵無 主京居呉忠秋」、裏面には「庚午 釜山佐自川一里 第十四統三戸」と記されている。『星湖塞説』にも、安龍福の腰牌のことが書かれており、その表面に「東莱(トンネ)/私奴、用卜、年三十三」とある。安龍福は軍兵であり、顔は赤ら顔、やや髭が生え、体には傷がないことが伺える。「庚午」の年に33歳であることから、「庚午」は元禄3年(1690年)になるので、1657年生まれであることが分かる。身長は、旧尺貫法の鯨尺であると思われる一尺あたり37.8787879cmで四尺一寸で(身長は、約155.3cm)となる。居住地は彼の証言からも釜山の佐自川一里だったことが分かる。(当時の釜山は東莱県にある小さな漁村で日本の出先機関である対馬藩倭館があった)

安龍福が日本に連れて来られた時の日本での様子が記録されており、『竹島考』では「アンピンシヤハ猛性強暴ナル者」とあり、『因府年表』では「異客ノ内ヘ暴悪ノ者之有」と記されている。強暴で暴悪な性格であったようで、異国との争いを恐れず交渉するなど度胸のある人物だと言える[1]

安龍福は日本語が話せる。当時の釜山には日本の出先機関である対馬藩の倭館があって、その周囲には朝鮮との貿易に係わる日本人町が形成されていた。安龍福はこの釜山の日本人商人から日本語を教わったか、日本の商人と取引する朝鮮人に日本語を教わったのではないかとされている。彼の言動は日本や朝鮮で証言記録などに残っているが、彼自身の書いた航海の記録や日本での滞在記録などはなく、証言内容も曖昧なことから朝鮮語も日本語も文字はほとんど書けなかった様である。
また後の朝鮮での証言記録と実際とは食い違う点が多数あり、日本では朝鮮政府の使者であるかのごとく振る舞い、朝鮮では武勇伝を繰り広げた人物ではあるが、朝鮮の東莱府使は「風来の愚民が、たとへ作為する所があっても、朝家(朝鮮政府)の知る所ではない。」(至於漂風愚民設有所作爲亦非朝家所知)(肅宗実録 31巻 23年 2月 14日)と答えており、安龍福が朝鮮の役人や使者ではなかったこと、単独行動に虚偽の箔をつけて大言壮語していたことが明らかである。
安龍福の行動
竹島(鬱陵島)での村川家との遭遇

幕府より竹島(鬱陵島)を拝領していた米子の村川家と大谷家は、毎年交代で開発に出向いていたが、『竹島考』や大谷九右衛門の『竹嶋渡海由来記抜書控』によると、1692年元禄5年)3月、村川家の船が竹島(鬱陵島)に行った時、島に多くの鮑が干されているのを見つけた。また置いていた漁具や漁船がなくなるなど、何者かが漁をしている痕跡もあった。そうこうするうち、鮑漁をしていた朝鮮人に遭遇する。この朝鮮人の中に日本語が分かる者がおり、尋ねてみると、「竹島(鬱陵島)より北の島へ国主用の鮑取りに来たが難風に遭ってこの島に漂着した。この島にも鮑がいるので取った。


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