安里
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この項目では、沖縄県那覇市の地名について説明しています。その他の用法については「安里 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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安里(あさと、琉球語:アサトゥ)[* 1]は、沖縄県那覇市の地名で、かつての安里村。郵便番号は902-0067。

かつての安里村は現在の住所表記では、安里1 - 3丁目、おもろまち1丁目、大道、松川1丁目、三原1 - 3丁目に当たるため、歴史的に安里村、真和志村、真和志市時代に類する記述は本稿で行う。
地理

那覇市真和志支所管内に位置する。北部をおもろまち那覇新都心)、東部を大道、南部を三原および壺屋、南西部を牧志、西部を泊と隣接する。

泊港に隣接しており、「脇泊」とも呼ばれていた。また、泊が発展していったことにより、逆に安里は浸食され、縮小していったと見られる[1]。なお、かつては安里一帯がほぼ安里川の河口部であり、現在のゆいレール牧志駅近くまで内海となっていた。

戦前は農村に女学校や陸軍施設、と言った様相であったが、現在はゆいレールの安里駅があり、基本的には住宅地ながらも、栄町市場、栄町社交街が賑わいを見せている。

他に地形上の特徴としては、沖縄戦史上、シュガーローフとして著名な安里五二高地がある(現在の住所ではおもろまち)。
安里川、安里橋詳細は「安里川」を参照

河川としては二級河川である安里川が地域内ほぼ中央部を南東から北西に向けてを流れており、戦前は女学生が足を洗う光景なども見られた。この川は隣接する泊に至り、東シナ海那覇港)に注いでいる。

かつては那覇と首里の間に内海があったが、従来は船橋でお茶を濁していた。そこに1451年に長虹堤を築き、各所に計7つのアーチ橋を設けた。その一つが安里橋である。かつての石橋には「球国の大観也」と刻まれており、首里、那覇間の要衝であった。この辺りは宗元寺が近く、宗元寺西原とも呼ばれていた[2]

なお、旧石器時代、最も海面が高かった頃には、この安里橋近辺の海抜4.5m程度の所に海面が有ったと見られている[3]
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琉球の地頭一覧#真和志間切 」および「 真和志」も参照

泊村に隣接しているため脇泊とも言われた安里村は、基本的には農村であったが、かつて首里と那覇の間に存在し、現在は那覇市に吸収されている真和志村、真和志市の中心的地域であり、1922年(大正11年)に沖縄県営鉄道嘉手納線安里駅が設置されると、更なる活況を呈した[* 2]
琉球時代

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尚円王時代に安里地頭となった大安里大親清信は成化年間に泊村から安里村に移り住んだ。安里地頭はその後祖姓五世良資、孫姓五世嗣繁、毛姓六世安好、と受け継がれていった[4]
戦前

村の人口は1880年(明治13年)時点で219戸、815人と言った規模であった。1890年(明治23年)には陸軍の練兵所などが設けられ、1908年(明治41年)には沖縄県立高等女学校が首里から移転、1909年(明治42年)には陸軍墓地が設けられた。以上により安里村は人口が増加し、1920年(大正9年)には東部の一部を「大道」として分割することとなった[5]。なお、記述は前後するが、1908年(明治41年)、沖縄県及島嶼町村制によって、真和志間切は真和志村に、安里村はその中の字に改められている[6]。その後、1923年(大正12年)、沖縄県営鉄道安里駅が設置される。

1933年(昭和8年)、那覇の中心部と首里の連絡の便のため、那覇警察署(現:沖縄県警察本部)から安里まで、ほとんど人家の見られなかった湿地帯に新しい道を拓き、「新県道」と呼んだ。現在の「国際通り」の原型である。従来は泊高橋 - 美栄橋とかなりの迂回を強いられていたところが全くの直通となり、かなり交通の便が良くなった[7]。なお、1944年(昭和19年)10月時点で安里村の人口は1248人、大道は692人であった[8]


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