安部譲二
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阿部丈二」とは別人です。
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安部 譲二
誕生安部 直也
あべ なおや
(1937-05-17) 1937年5月17日
東京府東京市
現・東京都品川区
死没 (2019-09-02) 2019年9月2日(82歳没)
職業小説家漫画原作者
俳優タレント
国籍 日本
活動期間1983年 - 2019年
ジャンル悪漢小説・犯罪小説・青年漫画
代表作『塀の中の懲りない面々
RAINBOW-二舎六房の七人-
主な受賞歴第51回小学館漫画賞一般部門
(『RAINBOW-二舎六房の七人-』)
デビュー作『塀の中の懲りない面々』
配偶者遠藤瓔子・安部まゆみ 他
子供遠藤正二朗(瓔子との子)
親族梶原仲治(母方の祖父)
公式サイト ⇒大人気ないオトナ
ウィキポータル 文学
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安部 譲二(あべ じょうじ、1937年5月17日 - 2019年9月2日[1])は、日本小説家タレント

暴力団員であり、自らの服役経験を基にした自伝的小説『塀の中の懲りない面々』などの著作がある[2]。元日本航空スチュワードとしても勤務した。また漫画原作者としても、第51回小学館漫画賞を受賞した柿崎正澄の漫画『RAINBOW-二舎六房の七人-』などの作品がある。血液型O型。

本名は安部 直也(あべ なおや)。元妻は実業家エッセイストの遠藤瓔子で、ゲームソフトの原作・監督などを手がける遠藤正二朗は遠藤との子にあたる。
経歴

下記、ヤクザ時代の過去については「大体、10%だけがホントで、あとは膨らました脚色ですよ」、「作家は政治屋や役人と一緒で、ホントのことなんか言うわけがねぇんだよ」とも発言している[3]。しかし日本航空客室乗務員であった経歴については、当時の同僚の夫である深田祐介や当時の同僚から事実であったことが証言されており、多数の写真も残っている。
生い立ち

日本郵船に勤務していた父・安部正夫、母・玉枝の次男(4人兄姉の末っ子)として、東京府東京市に生まれた。母は岩谷松平の子孫であり、安部が1994年6月放送のNHKライバル日本史』?「激突!宣伝大王?岩谷松平と村井吉兵衛」に出演した際に明らかにされた[4]

母方の祖父・梶原仲治明治の立志伝中の人物で、山形県の福浦村(現在の飽海郡遊佐町あたり)で生まれて苦学して東京帝国大学を卒業し、銀行家になった[5]。母の姉は、法学博士岸清一の長男の妻[6]。父方の祖父は造船技師で、東京帝国大学で夏目漱石正岡子規と同期であった。
帰国子女

父の転勤に伴い、幼少時はイギリスロンドンイタリアローマで育つ。第二次世界大戦の影響を受けて、1941年に日本郵船が欧州支店を撤退するために家族で日本へ帰国すると、池田山(現・品川区東五反田)の母の実家に育ち、森村学園幼稚園に通う。

日本も第二次世界大戦に参戦すると、1942年に軍属として昭南島シンガポール)に出征した父の残した本箱にあったシェイクスピア全集や漱石全集、世界文学全集、プルターク英雄伝名将言行録などを国民学校低学年にして片っ端から読破。港区立麻布小学校では神童と呼ばれた。

また、大戦末期には熱海の祖母の別荘に疎開し、町内に松竹ロビンスの監督等を務めた新田恭一が住んでいて野球を教えてもらったという[7]。これが縁で成人した安部が安藤組のアマチュア野球チームにいたおり、安部の母が「プロ野球選手になれたらヤクザをやめてもいい」と言った息子の話を真に受け、足を洗って欲しいと新田から辿って新田の慶応野球部の後輩・別当薫に安部を紹介したことがあるという[8]
麻布中学校時代

私立麻布中学校時代の同級生には元総理大臣橋本龍太郎がいる。麻布中学の入学試験当日、頭のいい受験生の後席に座ればカンニングできると目論んだ安部は、他の受験生を品定めしたところ、橋本が一番頭がよさそうに感じその後席に座ることに成功したという。

後年、橋本と同窓会で会った際、政界に身を置くようになっていた橋本に自身と似た匂いを嗅ぎ取り、互いに都合の悪いことだけは黙して語らないことを約束したといわれる。また、橋本政権下の時代、コメンテーターとしてトーク番組で政治問題のコメントする際はいつも『俺は龍ちゃんと同級生だったから』とのことでいつも自民党擁護の発言が目立った。しかし、これは安部自身が元ヤクザのベストセラー作家でありながら橋本と同級生だったことを言いたかったちょっとしたネタであり、一緒に出演していた他のコメンテーターからは特に問題視されることはなかった。

麻布中学2年時には江戸川乱歩主宰の雑誌にアブノーマルセックス小説を投稿し、乱歩から「この子は心が病んでいる」と言われ、北鎌倉の寺で写経をさせられたことがある[9]。また、中学在学中から安藤組大幹部・阿部錦吾の舎弟となり、安藤組事務所に出入りしていたため麻布高校への内部進学が認められなかった。

1952年には夏祭りの場で複数のテキ屋と争い、出刃包丁による傷害事件を起こす。困った父親により幼少期に育ったイギリスに留学させられ、ウィンブルドン寄宿制学校に進む。同校在学中には南ロンドン地区の少年ボクシング大会に出場し、ライトウェルター級選手として優勝した[10]。入寮から4ヶ月経った時、イタリアから留学中の女子生徒と全裸で戯れていたのを舎監に発見され退寮処分を受ける。16歳の時にカメラマンのアシスタントとしてオランダに渡り、ロバート・ミッチャム売春婦を巡って殴り合いをしたことがある[11]
安藤組時代

日本に戻ると、慶應義塾高校に入学。同校では体育会拳闘部の主将となったが、16歳で本格的に暴力団構成員となった上、早稲田大学の学生たち16人に喧嘩を挑まれて3人で叩きのめしたことが問題となり、「はなはだしく塾の名誉を汚した」との理由で1955年春に除籍処分を受けた[12]


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