安部一郎
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安部 一郎

2009年ベルギーにて指導をする安部
基本情報
ラテン文字Ichir? ABE
原語表記あべ いちろう
日本
出生地 日本秋田県
生年月日 (1922-11-12) 1922年11月12日
没年月日 (2022-02-27) 2022年2月27日(99歳没)
身長167cm
体重73kg
選手情報
段位十段

2022年3月1日現在
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あべ いちろう
安部 一郎
生誕 (1922-11-12) 1922年11月12日
日本秋田県
死没 (2022-02-27) 2022年2月27日(99歳没)
日本東京都
死因老衰
国籍 日本
出身校東京高等師範学校
職業柔道家教師
著名な実績欧州各国における柔道指導
流派講道館十段
身長167 cm (5 ft 6 in)
体重73 kg (161 lb)
肩書き全日本柔道連盟理事(元)・顧問(現)
講道館参与(現)
アジア柔道連盟事務総長(元)・名誉会員(現)
太平洋柔道機構名誉会長(現) ほか
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安部 一郎(あべ いちろう、1922年11月12日 - 2022年2月27日)は、日本柔道家講道館十段。

1950年代以降のヨーロッパにおいて講道館柔道の普及に尽力し、斯道の国際的発展に大いに貢献した。帰国後は講道館国際部部長や同審議部部長を経て、同参与を務めた。
経歴
柔道との出会い

秋田県の生まれ[1]。両親が山形県の産であったため本籍は暫く山形県西村山郡谷地町にあった[2]。父親が農林省(現・農林水産省)に勤める国家公務員であった関係で安部は幼少時より宮崎県岐阜県など日本各地を転々とし[3]、中学校の入学時には群馬県前橋市に住んでいた[1]

旧制前橋中学校(現・県立前橋高校)に入学すると体育のほかに軍事教練や武道の授業があり、武道は剣道柔道のどちらかを選択することになる。当時の安部は体型的には剣道の方が向いてると自認しつつも、剣道の防具より柔道衣の方が親に金銭的負担を掛けずに済むという理由で柔道を選択したことが柔道との出会いであった[1]。それでも当初、警察官OBの柔道教員が授業を担当していた時には柔道へ興じる事は無かったが、2年生になり東京高等師範学校を卒えたばかりの佐藤茂[注釈 1]が教員として赴任してきて授業を受け持つようになると、その上手な教え方に魅かれ、俄然柔道が楽しくなった安部は授業だけでは飽き足らず、先生や先輩からの勧誘もあって柔道部に入部した。同じ頃には同級生10人も一緒に入部しており、「柔道はこんなに素晴らしいものなのかと思い始めた」と語っている[1]。5年間の師範学校生活で安倍は3年次に団体戦のレギュラーとなり、同年の県大会では準決勝戦で群馬師範学校と相見えると、制度の都合で2学年上のメンバーが顔を揃える相手との試合であったが安倍は首尾よく引き分けに持ち込んだ。チームは大会3位に終わったものの、「先輩が全員敗れる中で自分は引き分ける事ができ、そこでまた自身が出て柔道が面白くなった」と安倍[3]。またこの頃、東京高師では夏休みに全国の中等学校から生徒を集めて1週間の講習会を行っており、佐藤に引率されて参加した安部は、 ここで永岡秀一や橋本正次郎、大滝忠夫、松本芳三らの薫陶を受ける機会を得た[1]
東京高師入学と太平洋戦争

佐藤の元で本物の柔道に触れたのを機に柔道の専門家を志すようになった安部は、1941年に旧制前橋中学校を卒業すると、佐藤と同じ東京高師の体育科第二部に進学[2]。同期には、旧制盛岡中学校(現・県立盛岡第一高校)を全国優勝に導いて名を馳せた川村禎三らがいた[4]。2年次までは普通に授業を受けて柔道をする事ができたが、3年生になった頃には太平洋戦争に暗雲が垂れ込め始めて赤羽の被服廠や栃木県農家に勤労奉仕に赴き、4年生になると学校に行く事も全くできなくなっていった[3]。それでも安部は教員を養成する師範学校学生という事で学徒出陣は免除されていたが、他校の学生が出征しているのに自分達だけが開墾をしている状況に耐えられず、自ら志願して陸軍の特別操縦見習士官を受験し、宇都宮市にあった陸軍飛行学校に入校した[1]

ここでの安部は3カ月の地上訓練を受けた後にパイロットとして養成され、わずか18時間の離着陸訓練を受けただけで1人で飛行機に乗り込み操縦を任されるという有様だった。その後1944年2月に朝鮮半島に渡った安部は海州の陸軍飛行教育隊で旧式の戦闘機を、更に同年5月からは平壌近くの朝鮮会文陸軍飛行教育隊で爆撃機の訓練を受け、戦況の悪化に伴いソウル方面へ移動して水原終戦を迎えた[1][3]。その後はアメリカ軍を避けて転々と移動し、釜山まで約200kmという所で武装解除。終戦を迎えたとはいえ軍刀を帯びていたため、釜山まで一昼夜かけて徒歩で移動し、釜山のから福岡市へ帰国を果たした[注釈 2]1945年の事であったが、帰路に原子爆弾で焦土と化した広島市を見て敗戦を実感したという[1]
終戦後

講道館での昇段歴段位年月日年齢
入門
1938年7月29日15歳
初段1938年8月17日15歳
二段1939年8月15日16歳
三段1942年1月11日19歳
四段1944年1月9日21歳
五段1946年7月25日23歳
六段1951年7月24日28歳
七段1957年11月20日35歳
八段1971年5月1日48歳
九段1992年4月24日69歳
十段2006年1月8日83歳

両親の住む東京に戻って実家で3日ほど休んだ後に東京高師を訪ねると、立派だった道場は空襲で焼かれていたが、それでも附属小学校を間借りして橋本、大滝、松本らが引き続き柔道指導に当たっていた[1]。復学を希望した安部だったが、半年の就学期間があったために既に1944年9月付で卒業扱いとなっており、橋本から講道館への就職を斡旋されて、子安正男八段(のち九段)が課長を務める同館秘書課に着任[1]。講道館では南郷次郎館長が呼び出しベルを鳴らすと走って行って用事を仰せつかる、という業務内容で、仕事らしい仕事が無い日も多く、午後3時には切り上げて講道館道場で門生達に稽古をつけて汗を流した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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