この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年5月)
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2018年5月)
安達峰一郎 (1929年)
安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明治2年6月19日〉 - 1934年〈昭和9年〉12月28日)は、日本の外務官僚、国際法学者。法学博士。メキシコ公使、ベルギー大使、フランス大使を経て、アジア人初の常設国際司法裁判所所長。山形県出身。 アジア系として初の常設国際司法裁判所の所長(判事としては国内2人目)となるが、所長就任早々、祖国の日本が満州事変を起こし、国際連盟を脱退することになる。所長3年の任期を終え、1934年(昭和9年)1月から平判事になったが、日本の国際連盟脱退問題の悩みから6月に体調を崩し、8月に重い心臓病を発症。同年12月28日、オランダのアムステルダムにある病院で死去した。この時、オランダは国葬の礼をもって、国際平和
経歴
1968年(昭和43年)より優れた国際法の研究業績をあげた研究者に対し安達の名前を冠した「安達峰一郎記念賞」が授賞されている[1]。
曾孫に詩人の河津聖恵がいる。 妻の鏡子(1870年生)は、山形の士族・高澤佐コの長女で、女子高等師範学校出身、元皇后宮御用掛[4]。長女・功の夫に武富敏彦、二女萬里の夫に河津益雄(河津暹の異母弟)、妹・きみの子に今井達夫がいる[4]。
略歴安達 峰一郎 (1931年)ポーツマス条約時の安達(手前の一番左)
1869年 - 羽前国村山郡高楯村(のち山形県東村山郡山辺町)に生まれる[2]。
1882年 - 山形師範学校附属中学校(のち山形県立山形東高等学校)に入学[3]。
1884年 - 上京し、司法省法学校に入学。卒業後東京大学法学部仏法科に入学し、英語、フランス語、イタリア語を習得。恩師・宮城浩蔵(明治大学創設者の一人)の紹介で、お雇い外国人で法理学のボアソナードや国際法学者のアレッサンドロ・パテルノストロの通訳を担当する。
1892年 - 東京帝国大学法科大学仏法科を卒業、外務省に入省。試補となり、和仏法律学校(現・法政大学)、明治法律学校講師も務める[4]。
1893年 - 条約改正取調委員。公使館書記生としてイタリアに赴任し、外交官補に任ぜられる[4]。
1905年 - 日本全権小村寿太郎の随員として、日露戦争講和のポーツマス条約草案作成にあたる。
1907年 - 法学博士の学位を授与される。「Category:法学博士取得者」を参照
1913年 - メキシコ公使。
1917年 - ベルギー公使。
1919年 - 第一次世界大戦のパリ講和会議日本代表代理。
1920年 - 国際連盟第1回総会 日本代表代理として活躍。
1921年 - ベルギー大使(公使館が大使館に格上げの為)。
1921年 - 国際連盟第2回総会日本代表(以後、第10回総会まで連続して日本代表)。
1926年 - (駐ベルギー大使のまま)国際連盟組織委員会委員[5]。
1927年 - フランス大使。
1928年 - パリ不戦条約締結に参与。
1929年 - ハーグ対独賠償会議日本代表。この会議でフランスとイギリスが激しく対立した時、調停の依頼を受けた安達は、日本流の茶会を開いて両国代表を招いて和解させ、会議を成功に導いた。
1930年 - 常設国際司法裁判所2期目の判事選挙で最高得票で当選。(判事の任期は9年)。
1931年 - 常設国際司法裁判所の第4代所長(裁判長)となる[6]。(所長の任期は3年)。
1934年 - 逝去。オランダ国葬、常設国際司法裁判所葬。
親族
学者としての顕彰オランダ、ハーグにおける安達峰一郎の埋葬(1935年)
ハーグ国際法アカデミー教授(1924年)
万国国際法学会(定員60名)の日本人初の正会員(1924年)
日本学士院 帝国学士院会員(定員100名)(1925年)
ルーベン大学法学部名誉教授(1927年)