凡例安藤義門
時代江戸時代前期
生誕寛永13年9月7日(1636年10月5日)
死没承応3年8月6日(1654年9月16日)
改名千福丸(幼名)、直栄、義門
戒名亮藤院穹賢居士
墓所愛知県岡崎市の妙源寺
官位従五位下帯刀
主君徳川頼宣
藩紀州藩附家老(紀伊田辺藩主)
氏族安藤氏
父母父:安藤直治
妻正室:松平成重娘
子養子:直清
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安藤 義門(あんどう よしかど)は、江戸時代前期の紀伊国田辺藩3代藩主(紀州藩附家老)。官位は従五位下・帯刀。初名は直栄(なおよし)[1]。 寛永13年(1636年)9月7日、2代藩主・安藤直治の長男として紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市)にて誕生[1]。幼名は千福丸。父は義門が生まれる5日前に死去していたため、1歳で家督を相続した。 慶安元年(1648年)10月1日、3代将軍・徳川家光と世子・徳川家綱に拝謁し[2]、承応元年(1652年)12月29日には従五位下、帯刀に叙任[2]。祖父・直次と同じ官職となったのは、主君の紀州藩主・徳川頼宣が幕府に願い出たためであるという[2]。 承応3年(1654年)8月6日、紀伊で死去した。享年19(満17歳没)。跡を養子・直清が継いだ。
生涯
系譜
父:安藤直治(1607-1636)
母:不詳
正室:松平成重娘
養子
男子:安藤直清(1633-1692) - 旗本・安藤直政
脚注^ a b 『寛政重修諸家譜』791頁。
^ a b c 柴山[1884: 91]
参考文献
柴山典編 『華族類別譜(附録)』巻之一、屏山書屋、1884年、91頁。
『寛政重修諸家譜』第6輯、国民図書、1923年、791頁。
表
話