安藤正勝
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この項目では、幕末の志士について説明しています。卓球選手については「安藤正勝 (卓球選手)」をご覧ください。

安藤正勝(あんどう まさかつ、天保13年(1842年3月 - 慶応2年9月13日1866年10月21日[1])は、江戸時代末期の幕末志士。通称・鎌次。土佐藩足軽として久万村に生まれる。

出自は不明だが、多くの勤王志士たちと接触を持った挙句、藩内屈指の勤王論者となった。慶応年間になってから、京の土佐藩邸詰を仰せ付かり、そこで一時、坂本龍馬に師事。国事に関わるようになる。しかし、幕府によって三条大橋に長州藩を非難(罪状告発)する制札が立てられると、これに反発した正勝ら、過激派の志士は上士・宮川助五郎、同僚・藤崎吉五郎ら7名とともに制札撤去に乗り出す。その際、新選組に遭遇し悶着となり、宮川は捕縛、藤崎は斬殺され、正勝は負傷しながらも土佐藩邸まで存えることが出来たものの、騒ぎが大きくなるのを憂い自刃したという(三条制札事件)。傷が深く、とどめを刺すよう懇願したとも言われる。没した日付には諸説がある。

1898年(明治31年)、従五位が贈られている[2]
脚注^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.12


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