安藤忠雄
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この項目では、建築家について記述しています。独立混成第62旅団長などを歴任した陸軍軍人の同名の人物については「安藤忠雄 (陸軍軍人)」をご覧ください。

安藤忠恕」とは別人です。

安藤忠雄
2004年撮影
生誕 (1941-09-13) 1941年9月13日(82歳)
大阪府大阪市港区
国籍 日本
出身校大阪府立城東工業高等学校
職業建築家
受賞日本建築学会賞作品賞(1979年)
毎日芸術賞(1987年)
日本芸術院賞(1993年)
プリツカー賞(1995年)
高松宮殿下記念世界文化賞(1996年)
RIBAゴールドメダル(1997年)
AIAゴールドメダル(2002年)
京都賞思想・芸術部門(2002年)
UIAゴールドメダル(2005年)
ジョン・F・ケネディセンター芸術金賞(2010年)
後藤新平賞(2010年)
公式サイト ⇒www.tadao-ando.com

所属安藤忠雄建築研究所
建築物住吉の長屋
光の教会
地中美術館
光の教会1989年竣工)

安藤 忠雄(あんどう ただお、1941年昭和16年)9月13日 - )は、日本建築家。一級建築士(登録番号第79912号)。安藤忠雄建築研究所代表[1]東京大学特別栄誉教授[2]文化功労者文化勲章受章。21世紀臨調特別顧問、東日本大震災復興構想会議議長代理、大阪府大阪市特別顧問コンクリート打ちっ放し建築を主に住宅教会ホテルなど国内外に数々の作品を発表。「住吉の長屋」(1976年)、「光の教会」(1989年)、「ベネッセアートサイト直島」(1992年 - )、「淡路夢舞台」(2000年)、「こども本の森 中之島」(2020年)などの代表作が知られる[1][3]
略歴

大阪府大阪市港区生まれ、同市旭区出身。三人兄弟で弟が2人いる。双子の弟は、北山創造研究所(都市コンサルタント業/商品デザイン業)を主宰する北山孝雄。下の弟は建築家の北山孝二郎ピーター・アイゼンマンとのコラボレーションで名を馳せた)。一人娘だった母親の実家・安藤家を継ぐため、生前からの約束に従い祖父母の安藤彦一・キクエの養子となる。大阪の下町にある間口2、奥行き8間の長屋で育つ。

大阪府立城東工業高等学校卒業。月給1万円の時代に、4回戦のファイトマネーが4千円という報酬に魅せられ、高校在学中の17歳の時にプロボクサーのライセンスを取得し[4][5]フェザー級でデビュー。リングネームは「グレート安藤」。以後、10試合ほど行い6回戦まで行った[6][7]が、所属ジムに来ていたファイティング原田の練習を見て、身体能力の桁が違うとその才能に圧倒され、1年半ほどでボクシングからは引退する[8][9]

もともと、中学生の頃、自宅の建て替えを担当した大工や、中学時代の数学教師からの影響で、建築に興味を持っていた[8]。このため卒業後、前衛美術を志向する具体美術協会に興味を持つ。

経済上の理由で大学には通えなかったことから建築学の専門教育は受けておらず、毎日15時間以上独学し、建築科の学生が通常4年かけて学ぶ内容を1年で習得して建築士試験に1発で合格した[10][注釈 1]。また、水谷頴介の建築設計事務所でのアルバイトもしていた。

木工家具の製作で得た資金を手に、24歳の時から7ヶ月、欧米アフリカアジアへ放浪の旅に出る。ヨーロッパからの帰路、南仏マルセイユで数週間待たされた後、帰国の船に乗り、アフリカの象牙海岸ケープタウンマダガスカルに立ち寄り、インドボンベイ(現:ムンバイ)で下船する。安藤は“何かに導かれるように”汽車に乗り、ベナレスに向かった。ガンジス川が泳ぎ、死者火葬に付される傍らで多くの人々が沐浴するさまや、強烈な太陽の下、異様な臭気に包まれた果てしなく続く大地が渾然一体となり人間の生がむき出しにされた混沌世界に強烈な印象を受け、逃げ出したい気持ちを必死にこらえながらガンジス川の岸辺に座り込み、「生きることはどういうことか」を自問し続けた。「人生というものは所詮どちらに転んでも大した違いはない。ならば闘って、自分の目指すこと、信じることを貫き通せばいいのだ。闘いであるからには、いつか必ず敗れるときが来る。その時は、自然に淘汰されるに任せよう」と考え、ゲリラとしての生き方を決心する。1965年、24歳のときである。この放浪中に安藤が撮影した写真は、ルイス・I・カーンの作品集などで使われている。

1977年のローズガーデン(兵庫県神戸市生田区)等初期の作品のいくつかは、弟の孝雄の所属していた、セツ・モードセミナー出身の浜野安宏が代表を務める浜野商品研究所(1992年、浜野総合研究所と改名)と共に実現した。

1970年代には個人住宅などの小規模建築、1980年代には商業施設、仏教寺院やキリスト教会などの中小規模の建築の設計が多かった。1990年代以降は、公共建築、美術館建築、海外の仕事も増えている。

手掛ける建築では、コンクリートを多用する。その理由について「コンクリートは20世紀を代表する材料で、なおかつ誰にでも手に入る材料だ。私は誰にでも手に入る材料をもって、誰にでもない世界を創りたいと思う」と2021年に語っている[11]
年表

1941年9月13日:大阪市港区に生まれる。

1965年:この年より4年間、2度にわたり世界を放浪。キューバの革命家チェ・ゲバラに傾倒し[12]、ガンジス川の河岸でゲリラ的生き方を決意。

1969年:安藤忠雄建築研究所を大阪に設立し、個人住宅を多く手がける。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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