安藤勝己
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安藤勝己
2011年桜花賞表彰式
基本情報
国籍 日本
出身地愛知県[1]
生年月日 (1960-03-28) 1960年3月28日(63歳)[1]
身長161cm(2012年[1]
体重52kg(〃)
血液型A型
騎手情報
所属団体岐阜県地方競馬組合
日本中央競馬会
所属厩舎吉田秋好・笠松[2]
→田辺睦男・笠松[2]
→フリー・中央(栗東T.C.[3]
初免許年1976年(地方)
2003年(中央)
騎手引退日2013年1月31日
重賞勝利117勝(中央81勝、地方DG36勝)
G1級勝利28勝[注 1](中央22勝、地方交流6勝)
通算勝利20852戦4464勝
(地方14259戦3353勝、中央6593戦1111勝[4]
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安藤 勝己(あんどう かつみ、1960年3月28日[1] - )は日本の元騎手

1976年に公営笠松競馬場でデビュー。1978年に初めて同場の最多勝利騎手となって以来、通算19回その地位に就き、「アンカツ」の愛称と共に全国的にその名を知られた。1980年に日本中央競馬会(JRA)で初騎乗。1990年代後半より中央へのスポット参戦が頻繁となり、2003年に正式に移籍。以後JRA所属馬で数々のGI競走を制したほか、2007年、2009年にはJRA最高勝率騎手のタイトルを獲得した。2013年に騎手を引退。通算成績は20852戦4464勝。そのうち、JRAでは6593戦1111勝、重賞81勝(GI・JpnI競走22勝を含む)、地方では14259戦3353勝(うちGI・JpnI競走6勝を含むダートグレード競走36勝)。彼の中央移籍を契機として数々の地方競馬出身騎手がその後に続き、地方から中央への道筋を開いた先駆者と評される[5]。現在は競馬評論家として活動。

同じく笠松からJRA騎手となった安藤光彰は兄[6]大井競馬所属騎手の安藤洋一は甥[7]

※本項ではほかの安藤姓の競馬関係者と区別するため、とくに断りのない限り安藤勝己を「勝己」と表記する。
経歴
生い立ち

1960年、愛知県一宮市に生まれる[8]。和食の板前であった父親は、後に安藤の師匠となる吉田秋好の幼なじみであった。勝己が小学校3、4年生のころには笠松競馬場近くの店に勤務しており、このころに勝己は父親とはじめて笠松競馬場を訪れた[9]。勝己は子供の頃テレビで競馬を見たことがほとんどなく、中学生になった1973年にはハイセイコーの活躍が中心となって第一次競馬ブームが巻き起こったものの、媒体でハイセイコーを見た記憶は全くなかったため、「テレビで見てあこがれて騎手になろうなんて考えることは全然なかった」という[10]。しかし、じきに兄・光彰が騎手見習いのような立場として吉田厩舎に出入りするようになり、これに伴って勝己も厩舎を頻繁に訪れたことで馬に惹かれるようになっていき[9]、「なにか馬に関係した仕事ができればいいな」と漠然と考えるようになった[10]。当時、兄弟は母親と岐阜県大垣市で暮らしていたが、中学1年次の夏休み以降は笠松に居着き、そのまま厩舎の住み込みとなった[9]。なお、出生からの姓は「北浦」であったが、中学2年生の時に両親が離婚(後に復縁)したことに伴い「安藤」姓となった[8]

1975年4月、地方競馬の騎手養成所・地方競馬教養センター(栃木県那須塩原市)に入所[2]。教養センターの同期生には、同じく笠松で活躍し「身内同然の仲」となる濱口楠彦や、大井競馬で活躍することになる早田秀治がおり、早田とは特に気が合う仲であったという[11]。環境の変化と座学の苦痛で胃潰瘍になり、2?3カ月の休養も経験したが、規定の1年半で卒業し[11]、のち騎手として笠松に戻った。騎手デビューに際しては、年功序列を重んじる師の吉田から「最初は光彰が7、勝己が3の割合で乗せる。1年経ったら、上手い方に多く乗せるよう考え直す。兄弟同士、負けん気で頑張れ」と訓示されたという[12]
笠松競馬時代
デビュー・笠松競馬の第一人者へ笠松競馬場

1976年10月20日に騎手デビュー。初戦は笠松競馬第6競走でハツシンロードに騎乗し、初戦は9着であった[2]。3日後にジュニヤチャイナで初勝利[2]。12月26日にはシプリアパールで第1回ジュニアグランプリを制し、デビュー2か月あまりで重賞初勝利を挙げた[2]。初年度は9勝、翌年は78勝と成績を上げ、3年目の1978年には116勝を挙げ[13]、初のリーディングジョッキーとなった[2]。以後、勝己は18年連続でその地位を保ち[2]、笠松では「カラスが鳴かない日はあっても、アンカツが勝たない日はない[14]」といわれる名騎手となっていく。若手の頃に特に手本としたのは、名古屋競馬所属で、後年吉田稔を育てた山田義男であった[15]

1980年には地方競馬騎手招待出場のため中央競馬で初騎乗。後に種牡馬として名を成すヤマニンスキーで中央初騎乗・初勝利を挙げ、同馬を管理する浅見国一から「中央にトレードしたい騎手だ」と高く評価された[16]。このころ執筆された山口瞳の旅打ち自戦記『草競馬流浪記』では、中央で「天才」と称された福永洋一になぞらえ「笠松の福永洋一」と紹介されている[17]
オグリキャップとフェートノーザン

笠松時代の勝己の騎乗馬のうち、特に重要な1頭とみなされているのが、1987年に笠松でデビューしたオグリキャップである。デビューから5戦を3勝・2着2回としていたオグリキャップに、勝己は6戦目の重賞・秋風ジュニアから騎乗した。それまでは青木達彦、高橋一成のふたりが騎手を務めていたが、青木は落馬負傷中、高橋は地方競馬全国協会の研修のため不在という偶然により回ってきた騎乗馬であった[18]。勝己を背にして以降7戦7勝という成績を挙げた[19]オグリキャップは、1988年春より中央へ移籍してGI競走で4勝、またそうした実績以上に印象的なレースを積み重ね、1980年代末より起きた競馬ブームを牽引した[20]

当時の制度上、中央へ移籍した時点で勝己がオグリキャップに騎乗する機会は失われた。勝己はこのことについて「寂しい、残念だ、という気持ちは自分にもあったはずだ」としながらも、「その頃には中央との交流競走など想像もつかないことだった。だからオグリキャップの移籍に関しては、すぐに割り切ることができた。そのことをいつまでも引きずってくよくよするようなことは、まるでなかった」、さらにオグリキャップが笠松在籍のままならば「ローカルなヒーロー」で終わっていたとして、「笠松からの旅立ちは、オグリキャップにとって幸せなことだったのだと思う」と述べている[19]。勝己によると、オグリキャップが中央に移籍してから活躍するようになると、「中央でオグリに乗ってみたいでしょう」と聞く人もいたというが、そのように考えることはなかったという[10][注 2]。勝己は後に「オグリキャップがいたから中央競馬が地方馬にGI開放とかそういう流れになっていったんじゃないかと思いますし、(自身の中央移籍への道を作ってくれたのも)オグリキャップのお陰だと思っています」と述べ、自身にとってのオグリキャップの存在についても「自分の未来を切り開いてくれた馬だと思います。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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