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凡例安藤信正
安藤信正
時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕文政2年11月25日(1820年1月10日)
死没明治4年10月8日(1871年11月20日)
改名欽之進、欽之介、信睦[1]、信行[1]、信正[1]
別名鶴翁、欽斎、晩翠(号)
戒名謙徳院殿秀譽松巌鶴翁大居士
墓所川嶋山楢騎士院良善寺
官位従五位下・伊勢守、長門守、対馬守[1]、従四位下、侍従
幕府江戸幕府雁間詰、奏者番、寺社奉行、若年寄、老中、勝手掛老中、溜間詰
主君徳川家慶、家定、家茂
藩陸奥国磐城平藩主
氏族安藤氏
父母父:安藤信由、母:松平信明娘
兄弟信正、板倉勝成、正子、力子
妻松平宗発娘
子信民、信守、ト子、内藤正誠正室
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安藤 信正(あんどう のぶまさ)は、江戸時代後期の大名。陸奥国磐城平藩5代藩主。官位は従四位下・侍従、長門守、対馬守。対馬守系安藤家10代。幕末に若年寄、次いで老中を務めた[1]。 文政2年(1819年)11月25日、磐城平藩4代藩主・安藤信由の嫡男として磐城平藩江戸藩邸にて誕生[2]。母は大河内松平信明の娘。幼名は欽之進、後に欽之介。元服時の初名は信睦(のぶゆき)、老中在職中に信行(のぶゆき)、さらに信正へ改名している[1]。 天保6年(1835年)3月15日、11代将軍・徳川家斉に御目見する。同年12月16日、従五位下・伊勢守に叙任する。後に長門守、対馬守と改める。 弘化4年(1847年)8月2日、父の死により家督を継ぐ。弘化5年(1848年)1月23日、奏者番に就任する。 安政5年(1858年)8月2日、寺社奉行加役を経て、大老・井伊直弼の下で若年寄となる。安政7年(1860年)には老中となるが、直後の桜田門外の変で直弼が暗殺される。信正は紆余曲折を経て事態を収拾した後、直弼に罷免されていた久世広周を老中に再任させ、以後この2人が幕政を事実上取り仕切る最高権力者となった(久世・安藤政権 信正は安政の大獄を起こした井伊直弼の強硬路線を否定し、穏健政策を取ることで朝幕関係を深めていこうと考えた(公武合体)。文久2年(1862年)には、直弼の跡を継いで彦根藩主となった井伊直憲に亡父の責任を取らせる形で10万石を減封させている。
生涯
家督相続
老中在任期