安茂里
あもり
国 日本
地方中部地方(甲信越地方)
都道府県長野県
自治体長野市
旧自治体安茂里村
面積13.91km²
総人口20,122人(住民基本台帳
安茂里(あもり)は、長野県長野市の市街地西郊外に広がる地域。
【最狭義】大字安茂里の範囲。
【狭義】1.に宮沖・伊勢宮一?三丁目・安茂里小市一?四丁目・差出南一?三丁目を加えた範囲。1882年(明治15年)末時点の上水内郡安茂里村域に相当。
【広義】2.に大字平柴・大字小柴見・平柴台を加えた範囲。1889年(明治22年)4月時点の上水内郡安茂里村域に相当。長野市役所安茂里支所管内の範囲。本項で解説
地域内(長野市役所安茂里支所管内)の人口は、9,123世帯 20,122人(令和5年3月1日現在)[1]。
本項では、かつて概ね同区域に所在した上水内郡安茂里村(あもりむら)についても述べる。 地域東端を裾花川、南端を犀川が流れ、北には富士ノ塔山 (981m)・旭山 (長野市)(785m) がそびえる。地域南部に信越本線・北陸新幹線と国道19号が通過する。周囲は以下の地域と接する。 小田切地区 - (本庁)第二地区(本庁)第四地区 面積は広大だが、北寄りの大半の部分は山林であり、住宅などは南部の国道19号沿道?犀川・裾花川の間に密集している。 裾花川を隔てて長野市街地の西側に接しており、ベッドタウンとして戦後人口が急増。平柴台・杏花台・宮沖・園沖・伊勢宮・犀北などの団地が造成され、1985年(昭和60年)には信越本線に安茂里駅が新設された。 松代藩の奨励で栽培が始まった杏の栽培が古くから盛んである。現在では千曲市のあんずの里(森・倉科地区)が杏の名所として有名であるが、以前は当地が森・倉科をしのぐ名所として名が通っており、善光寺の参拝客が花見に大勢立ち寄った。しかし戦後ベッドタウンとして住宅地化していくに伴って杏の木は減り、「あんずの名所」は森・倉科へ移っていった。ただ現在でも杏の生産は続いており、大字安茂里には杏にちなんで「杏花台」と名付けられた住宅地がある。 工業は、地域東部では裾花川沿いの差出地区に味噌メーカー最大手のマルコメ本社・工場や農協系の長野興農本社・工場など大規模な食品工場が立地するほか、印刷所も多い。地域西部では安茂里小市地区などに陸運業の事業所や機械製造工場などが立地する。地名の由来は、1876年(明治9年)に前身4ヶ村が合併し安茂里村が発足する際に、古語「天降る(あもる)」にちなんで「安らけく茂る里」の意で字を当てて命名された瑞祥地名[2]。 市の推計人口による。各年10月1日の数字。 1985年(昭和60年)21,650人 あもりむら
概要
小田切地区(本庁)第五地区
安茂里地区
篠ノ井地区 - 川中島地区 - 更北地区
人口
1990年(平成2年)22,974人
1995年(平成7年)23,556人
2000年(平成12年)22,733人
2005年(平成17年)23,066人
2010年(平成22年)22,837人
2015年(平成27年)21,924人
2020年(令和2年)20,781人
長野市 / 推計人口
沿革
安茂里村
廃止日1954年4月1日
廃止理由編入合併
長野市、古里村、柳原村、浅川村、大豆島村、朝陽村、若槻村、長沼村、安茂里村、小田切村、芋井村 → 長野市
現在の自治体長野市
廃止時点のデータ
国 日本
地方中部地方(甲信越地方)
Size:49 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef