国分寺
本堂
所在地広島県東広島市西条町吉行2064(字伽藍)
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度26分3.25秒 東経132度44分55.50秒 / 北緯34.4342361度 東経132.7487500度 / 34.4342361; 132.7487500 (安芸国分寺)
安芸国分寺(あきこくぶんじ)は、広島県東広島市西条町吉行にある真言宗御室派の寺院。山号は金嶽山、院号は常光院。本尊は薬師如来。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、安芸国国分僧寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、寺院跡である安芸国分寺跡(国の史跡)と、安芸国分尼寺跡の推定地についても解説する。 広島県中部、西条盆地北側の竜王山南麓の段丘上に位置する。聖武天皇の詔で創建された国分寺(金光明四天王護国之寺)の法燈を継ぐ寺院で、現在の境内に古代の国分寺跡が重複する。古代国分寺跡の発掘調査ではこれまでに主要伽藍が確認されているほか、全国で初めてとなる国師院の確認や、国分寺造営時期の遺物の出土で全国でも数少ない例として注目される。付近では安芸国分尼寺跡や古代山陽道の存在が推定されるほか、官衙的性格の青谷1号遺跡[注 1]も認められており、古くから政治的・文化的中心地であったことが知られる。 古代国分寺跡については、1932年(昭和7年)に聖武天皇の歯塚伝承地の発掘調査で塔跡が確認されて1936年(昭和11年)に「安芸国分寺塔跡」として国の史跡に指定されたのち、1969-1971年度(昭和44-46年度)の発掘調査で主要伽藍が確認されて1977年(昭和52年)に追加指定および史跡指定名称が「安芸国分寺跡」に変更された。現在では史跡整備のうえで安芸国分寺歴史公園として公開されている。また現国分寺では、中世期建立の仁王門および江戸時代後期建立の護摩堂が東広島市指定重要文化財に指定されているほか、文化財として薬師如来像2体(1体は広島県指定重要文化財、1体は東広島市指定重要文化財)を現在に伝世する。 創建は不詳。天平13年(741年)の国分寺建立の詔ののちの創建とされる。 発掘調査では、1つの土坑から天平勝宝2年(750年)4月29日銘の木簡のほか、多量の木簡や「安居」・「斎会」の墨書銘須恵器・瓦・土器が出土しており、同年4月15日からの安居(夏季修行)を斎行するには十分な主要伽藍がすでに整備されていたと推測される[1]。 なお、江戸時代末期の『芸藩通志』の国分寺縁起では第31代用明天皇の太子の優婆塞圓通の開基とあることから、前身寺院の国分寺転用とする説もあったが、現在までに前身寺院の遺構は認められていない[1]。 天平勝宝8歳(756年)には安芸国など26ヶ国の国分寺に灌頂幡などが下賜されている[1]。この26ヶ国は国分寺の伽藍整備が進んだグループであったと推測される[1]。 弘仁11年(820年)の『弘仁式』主税寮の規定では、国分寺料として稲3万束があてられる[2]。また延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上では、国分寺料として稲3万束が規定されている[2]。 天徳2年(958年)8月13日の安芸国牒では、安芸国分寺僧の勝誓の死後に尊住が継いだと見える[2]。また『福成寺縁起』では源範頼と国分寺に籠もる平家方との間の合戦で全焼したとするが、『国郡志下調書出帳』所収の弘安6年(1283年)国分寺縁記では焼失の記事はない[2]。 その後の変遷は詳らかでない。発掘調査によれば、平安時代中頃には塔の焼失および僧房の建て替えが認められる[3]。一方で、金堂・講堂では屋根の葺き替えが認められることから、金堂・講堂は引き続き建っていたと推測される[3]。 中世期には、領主の大内氏・毛利氏からの庇護を受けて、伽藍も整備されたと見られ、16世紀中頃には現在の仁王門が建立されている[3]。
概要
歴史
創建聖武天皇肖像
古代
中世
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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