安禄山
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2022年12月)

光烈帝 安禄山

初代皇帝

王朝燕
在位期間756年 - 757年
姓・諱安禄山
諡号光烈皇帝
生年神龍元年(703年
没年聖武2年1月5日
757年1月29日
父康氏
安延偃(養父)
母阿史徳氏
后妃康夫人
段皇后
年号聖武 : 756年 - 757年

安 禄山(あん ろくざん)は、代の軍人大燕国皇帝本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人突厥系混血。「禄山」はソグド語の「ロクシャン(rox?(a)n、明るい・光の意味)」の音訳[注釈 1]。唐の玄宗に対し安禄山の乱(安史の乱)を起こし、大燕皇帝に即位したが、最後は次男の安慶緒に殺害された。
生涯
混血児としての出生

当時契丹との境域にあたる遼河西岸一帯を統括していた営州都督府の主邑の柳城(現在の遼寧省朝陽市双塔区)の出身とされる。父は康姓であることしか知られないが、恐らく営州などのソグド人有力者であったとみられ、母は突厥の名族阿史徳氏出身の「巫師」であったという。

新唐書』巻225上 安禄山伝などによると、「軋犖山」という名の突厥の軍神に巫女であった母が祈ったところ、穹廬(ゲルなどのテント)を光が照らして懐妊し、野獣はことごとく鳴くなど祥瑞が現れた、と出生に関わる奇瑞譚が載せられている。また、当時、節度使であった張仁愿がこれを知り殺そうとしたが、なんとか難を逃れることができたという伝承もある。

父は早くに亡くなったが、母はその後に突厥のソグド人有力者である安延偃と再婚した。安延偃には唐に仕えて「胡将軍」と呼ばれていた安波注という兄がおり、安波注とその息子たちは唐と突厥の双方に仕えたソグド人軍閥の有力者の一門であった。

開元年間初期、十代の時に、突厥の混乱中により、養父の安延偃の姻戚である胡将軍の安道買とその長男の安孝節、安波注の息子である安思順・安文貞とともに、唐の嵐州別駕となっていた安道買の次男の安貞節を頼り、唐に亡命してきた。この時、安思順と兄弟の契りを結び、養父の姓をとって安禄山と名乗るようになった。

安禄山は突厥契丹などの諸勢力が混在する地域に育ったせいか「六蕃語」(6つの言語)[注釈 2] に堪能であったため、初め互市牙郎(貿易官)に任じられた。ずる賢く、残忍で、機転が効き、人に取り入るのに巧みであったと伝えられる。
たくましき生存

開元20年(732年)、幽州節度使の張守珪に取り立てられた[注釈 3]。勇猛さと地理を熟知していたことにより、同郷の史思明とともに数騎で出ていき、必ず数十人を捕らえてきた。その後も勝利を重ね、そのため偏将に任じられた。この頃、張守珪の養子となる。開元21年(733年)、唐の都である長安に奏上文を届けにいく。この時、安禄山に会った宰相の張九齢は、「幽州で反乱が起きるとするならば、この胡人が起こすだろう」と語ったと伝えられる。

開元24年(736年)、平盧討撃使、左驍衛将軍に昇進していた安禄山は、張守珪の命令で奚・契丹の反乱者を討伐した。しかし、勇に任せて進軍したために敗北してしまう。張守珪は軍法により死刑にしようとしたが、安禄山が「大夫は奚と契丹を滅ぼしたくないのか。なぜ、自分を殺すのだ」と訴えた。そのため、長安に彼を送り、朝廷に判断を任せることにした。張九齢は、軍法と司馬穰苴孫武の典拠、さらに反骨の相があるとして安禄山の死刑を主張したが、玄宗は受け入れず、許された。

開元28年(740年)、平盧兵馬使に昇進する。往来するものに多額の賄賂を贈り、誉めあげるように求めた。その甲斐あって玄宗は彼を信用した。開元29年(741年)、営州都督・平盧軍使に昇進する。この時も、採訪使として張利貞が監督に来るたびに賄賂を渡していたと伝えられる。

天宝元年(742年)、平盧節度使・左羽林大将軍に任じられる[注釈 4]

天宝2年(743年)、長安に入朝し驃騎大将軍に任じられる。この時、「昨年、営州で蝗害が起きたので、『私の心が不正で不忠なら、蝗にはらわたを食い尽くさせて下さい。もし、神に背いていないのなら、蝗を全て散らさせてください』と願い、香を焚いて天へ祈りました。すると、北から鳥の群れが飛んできて、蝗を食べ尽くしてしまいました。史書にお書き下さいますように」 と上奏して玄宗に大変喜ばれた。また、科挙の不正があったことを告発し、それが事実であったため、試験官の吏部侍郎の苗晋卿と宋遙、不正受験者の父であった張倚が左遷されている。


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