logo安祥城
(愛知県)
安祥城址
別名安祥森城、安條古城、森城、安城城
城郭構造平山城
天守構造なし
築城主和田親平
安祥城(あんじょうじょう、あんしょうじょう)は、三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった日本の城。城跡は安祥城址公園として整備されており、安城市指定史跡[1]。跡地には安城市歴史博物館・安城市民ギャラリーなどがある。 永享12年(1440年)、三河国碧海郡周辺を支配していた和田氏(畠山氏の一族と言われる)の和田親平が築城したとされる(安祥城築城以前は、西隣の安城古城が本拠地になっていた)。築城当初は居館であった。 『東照宮御実紀』巻一には「畠山加賀守某が安祥の城を攻め抜かれ」と記載されている。 『新編柳営続秘鑑』「十二巻・葵之御紋来由」によると、松平信光が、文明11年7月15日(1479年8月2日)の安祥城攻めの時、酒井氏の祖である酒井親清に、三葵の葉の家紋を与えたという(その後、文亀元年(1501年)9月、松平長親の時に今川方大将の北条早雲と岩付の城下の岩津城下にて合戦勝利、先陣の酒井左衛門尉・氏忠・入道浄賢の働きを顕彰し、信光が与えた三ツ葵の酒井氏の家紋を奉還してもらい、徳川家の家紋となったという。これ以後、酒井氏は、葵紋に似た酸漿(カタバミ)の家紋となったという)。 大永4年(1524年)、4代目の松平清康は、岡崎城を取得し、松平氏の拠点を岡崎に移した[2][3]が、安祥城も、安祥松平家(徳川本家)の重要拠点であり続けた。『徳川実紀』によれば、「御身は猶安祥におはしける。」とある。大永7年(1527年)、連歌師の宗長が安祥に入ったときに、松平信定(清康の叔父)が出迎えている。通説では、信定は叔父である松平親房の養子になった桜井城
歴史
しかし、天文4年(1535年)に清康が家臣に殺され森山崩れが起こると、継嗣・広忠を一族の松平信定が岡崎城から追放し実権を握るが、翌天文6年(1536年)に信定が岡崎城を退去したため、広忠が再入城する(その後、信定は許される)。しかし、三河の諸豪族が相次いで離反し、一族からも謀反が起こるなど松平氏は弱体化した。
天文9年(1540年)、松平氏が弱体化したこの機に尾張国古渡城主・織田信秀が安祥城を攻撃し落城させ、城代に織田信広を置いた(第一次安城合戦)。