安田忠夫
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「孝乃富士」はこの項目へ転送されています。「貴ノ富士」とは別人です。

安田 忠夫

プロフィール
リングネーム安田 忠夫
本名安田 忠夫
ニックネーム借金王[1]
戦う人生劇場
人生土俵際ファイター
身長195cm[1]
体重130kg[1]
誕生日 (1963-10-09) 1963年10月9日(60歳)
出身地東京都大田区
スポーツ歴大相撲
トレーナー馳浩
佐々木健介
橋本真也
デビュー1994年2月24日
引退2011年2月4日
テンプレートを表示

孝乃富士 忠雄

基礎情報
四股名安田 忠夫 → 富士の森 忠夫 → 孝乃富士 忠雄
本名安田 忠夫
生年月日 (1963-10-09) 1963年10月9日(60歳)
出身東京都大田区
身長192cm
体重143kg
BMI38.79
所属部屋九重部屋
得意技左四つ、寄り、上手投げ
成績
現在の番付引退
最高位東小結
生涯戦歴418勝459敗4休(79場所)
幕内戦歴212勝281敗2休(33場所)
敢闘賞1回
データ
初土俵1979年3月場所
入幕1986年5月場所
引退1992年5月場所
引退後プロレスラーへ転向
趣味博打
備考
金星2個(双羽黒2個)
2019年8月6日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

安田 忠夫(やすだ ただお、1963年10月9日 - )は、日本の元男性プロレスラー、日本の元総合格闘家、日本の元大相撲力士、日本のタレント血液型A型。2018年以降はYouTuberとして活動している。東京都大田区出身。娘は元レースクイーンAYAMI。大相撲力士時代は、身長192cm、体重143kg。
来歴
大相撲時代

中学3年生の1学期に大きな体を見込まれて九重部屋からの勧誘を受ける。最初は運動経験がないことを理由に断るが、「料理を覚えることもできるぞ」と九重に説得されて入門に至り、1979年3月場所初土俵。入門当初の四股名は本名と同じ安田だったが、1980年3月場所には富士の森、1984年3月場所以降は孝乃富士(たかのふじ)と名乗り、1986年5月場所に新入幕。懐が深く、胸を合わせての左四つが得意であったが立合いを苦手としていた。若手の頃は同部屋同期入門の北勝海信芳や、双羽黒(北尾光司)、寺尾常史琴ヶ梅剛史小錦八十吉らとともに「花のサンパチ組」と称された。

1986年9月場所、入幕3場所目に双羽黒から金星を挙げ、更に1987年9月場所にも双羽黒から金星を取った。1990年5月場所に東前頭9枚目で11勝4敗の好成績を挙げ敢闘賞を受賞し、翌7月場所に小結に昇進するが、2勝13敗の大敗に終わり、三役経験は同場所のみに終わった。1992年5月場所を最後に28歳で力士を廃業。なお引退相撲断髪式では、当時の師匠かつ兄弟子の九重親方(元横綱千代の富士)ではなく、自身が引退する直前の1992年4月まで師匠だった陣幕親方(元横綱・北の富士、現NHK相撲解説者)が止め鋏を入れていた。これは本人が「陣幕親方(北の富士)に切って欲しい」と希望し聞き入れられたためである。
プロレス、総合格闘技時代
新日本プロレスに入門

力士を廃業した後、プロレスラーへ転向。1993年6月、新日本プロレスに入門。日本武道館での馳浩戦でデビュー。恵まれた体格と格闘センスでポスト坂口征二(坂口から赤いコスチュームと入場曲「燃えよ荒鷲」を受け継いだ)として期待されたものの、大きなチャンスを与えられることもなく、結果を出せない中堅レスラーとしての日々が長く続く。穏やかな人柄で橋本真也らからはヤスティの愛称で呼ばれ可愛がられた。

私生活では根っからのギャンブル好きで借金苦に陥っていたこともあり、家族とも離縁。
総合格闘家としての絶頂期

のちにアントニオ猪木によって再生され、2001年に総合格闘技デビュー。3月25日のPRIDE.13佐竹雅昭に判定勝ちを収めて白星デビューを飾る。12月31日の「INOKI BOM-BA-YE 2001」ではメインイベントに大抜擢され、生中継でジェロム・レ・バンナから大金星を挙げた。2002年2月にはIWGPヘビー級王座も獲得した。その後悪役に転向し魔界倶楽部のリーダーとなるが素行不良が顕著となり、2004年に精神修行の旅に出て、正統派に戻るはずだった。しかし復帰から間もない9月15日、新日本プロレスから無期限出場停止処分を受け、当時の社長草間政一より2005年1月18日に解雇された。
新日本プロレス解雇後

その後はIWA・JAPANフーテン・プロモーションZERO1-MAXハッスルに参戦。出場停止からちょうど1年にあたる2005年9月15日、ZERO1-MAXを運営するファーストオンステージ社長・中村祥之が新日本プロレス社長・サイモン猪木と会談し、新日本に置きっぱなし状態になっていた安田忠夫の契約書を譲渡してもらい、中村が一切のマネージメントを受け持つこととなり、ファーストオンステージ所属(預かり)となった。事実上のZERO1-MAX所属であるが、ヒールレスラーであること、素行面の心配が解消されないこと、最初に参戦していたIWA・JAPANの興行を優先することなどの理由により、正式所属とはならなかった。

2005年12月、予定されていたIWA・JAPANの興行を諸事情により取りやめ、IWA・JAPAN社長の浅野起州はトラブルを否定しながらも今後の参戦がないことを示唆した。

アントニオ猪木主催のIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)旗揚げ戦(6月)でジョシュ・バーネット、9月の興行第2戦でマーク・コールマンと対戦するも共に負けを喫した。

2007年10月5日、都内の自宅で倒れているところを田山正雄に発見され、救急車で病院に運ばれていたことが判明した。警視庁田園調布警察署によると、練炭を使って自殺を図った模様。発見が早かったため一命は取り留めた[2]。その後、東京スポーツによると、意識が戻った安田は自殺説を否定し「焼肉をしようと思ったが、ガスが止められていたので七輪を買った。そうしたら今度は肉を買う金がなくなってしまい、独り空しく“エア焼肉”を楽しんでいたら、不覚にも眠ってしまって…」と語った。10月14日には翌週に退院できるほどに回復した姿が報道された[3]。退院後は12月20日に行われるIGF有明コロシアム大会で小川直也と対戦するも敗北。暫く音沙汰がなかったが、2008年5月にZERO1-MAXへ参戦する蝶野正洋のタッグパートナーとして出場することが明らかとなった。2008年7月には東海プロレスに参戦し、小仲=ペールワンとシングルマッチを行い勝利した。
現役としての晩年

2008年11月4日付東京スポーツに2008年10月より岩手県八幡平市にある石澤常光(ケンドー・カシン)の実兄が経営する養・養場で働いていると掲載されたが、2010年7月27日発売の週刊アサヒ芸能おいて、2010年7月をもって解雇となったことが報じられた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef