李裹児
続柄中宗第八皇女
全名李裹児
称号安楽公主(追降:悖逆庶人)
身位郡主→公主
出生嗣聖元年(684年)
死去唐隆元年6月20日
(710年7月21日)
配偶者武崇訓
安楽公主(あんらくこうしゅ)は、唐の中宗の娘。母は韋皇后。本名を李裹児といい、これは出生時に中宗が自らの衣服を脱いで安楽公主を包んだことより命名された。 幼少より聡明で美しい皇女であり、「光艶動天下」に記載された。韋后より寵愛を受けた。成年後は武三思の子の武崇訓
生涯
父母の溺愛の中で成長した安楽公主は、その生活が相当に奢侈なものであった。また、武崇訓との間にもうけた息子を数歳にして太常卿・鎬国公に封じ、姉の長寧公主・定安公主と共に民間の子女を攫い奴婢にするなどの行為に及んだ。これを知った左台侍御史の袁従一は安楽公主の逮捕を計画するが、中宗の詔勅に阻まれ、その行為は不問に付された。
その後、安楽公主は韋后と共謀して中宗の殺害と唐朝の簒奪を計画する。唐隆元年(710年)、中宗が両者により毒殺される事件が発生するが、臨?王李隆基(後の玄宗)がただちに兵を挙げて韋后を殺害、さらに逃亡した安楽公主も殺害し、それぞれ韋庶人、悖逆庶人と庶人に落とされた。