安東都護府(あんとうとごふ)は、唐が高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)後、現在の朝鮮半島北中部から満洲南部に相当する高句麗旧域の管理を目的に設置した統治機構。唐が高句麗と百済を滅ぼした後、旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林州都督府として、半島全域を藩属国に変えて羈縻州としたため、一時的に朝鮮半島に国はなくなった。 668年(総章元年)9月、唐の高句麗出兵により高句麗が滅亡後の平壌に設置され、鴨緑江下流域及び遼東地区を管轄した。その後, 羅唐戦争が発生し新羅が唐の行政地区を侵略した結果、安東都護府は旧首都だった平壌を含む高句麗遺領の約3割を放棄し、676年(上元元年)に遼東城に移転した。697年(神功元年)、安東都護府の下部に所属する安東都督府の長として、滅亡した高句麗宝蔵王の三男の高徳武
沿革
伊藤一彦は、唐の設置した安東都護府が676年遼東城に、熊津都督府は677年建安故城に移転し、新羅が支配する朝鮮半島の中・南部から唐の勢力が後を絶ったことについて、「有史以来、朝鮮半島、少なくとも北部には中国(人)の支配が直接及んでいたが、この7世紀後半に初めてそれが終わりを告げたことになる」と評している[1]。
歴代都護
魏哲(検校安東都護):668年 - 669年
薛仁貴(検校安東都護):669年 - 670年
屈突詮(安東都護):671年 - 672年
高侃(遼東州行軍総管・安東都護):672年 - 676年
屈突詮(安東都護):680年 - 682年
裴玄珪(安東都護):不明 - 696年
薛訥(幽州都督兼安東都護):698年 - 704年
唐休m(検校幽営等州都督兼安東都護):704年 - 705年
薛訥(幽州都督兼安東都護):706年 - 710年
裴懐古(幽州都督兼安東都護):712年
単思敬(安東都護):713年
許欽湊(安東都護):714年
許欽澹(安東都護):714年 - 不明
薛泰(安東都護):720年 - 725年
李?(平盧節度大使遥領安東都護):727年 - 不明
臧懐亮(安東都護):727年 - 不明
裴旻(安東都護):733年 - 不明
賈循(安東副大都護):742年 - 755年
夫蒙霊?(安東副都護):不明 - 756年
王玄志(安東都護):756年 - 758年
侯希逸(平盧節度使兼安東都護):758年 - 761年
高連(安東都護):不明 - 不明
高震(安東都護):不明 - 773年
満洲の歴史
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沃沮粛慎
燕遼西郡遼東郡
秦遼西郡遼東郡
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漢四郡夫余
後漢遼西郡烏桓鮮卑?婁
遼東郡高句麗
玄菟郡
魏昌黎郡公孫度
遼東郡
玄菟郡
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前燕平州
前秦平州
後燕平州
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隋柳城郡靺鞨
燕郡
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五代十国営州契丹渤海国靺鞨
遼上京道 東丹女真
中京道定安
東京道
金東京路
上京路
東遼大真国
元遼陽行省